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ゲオルグ・デ・ラランデ(Georg de Lalande、1872年9月6日 - 1914年8月5日)はドイツ出身の建築家。日本で設計事務所を開き、風見鶏の館をはじめとする作品を残した。日本にユーゲント・シュティールと呼ばれる建築様式をもたらしたとされる〔堀勇良、『日本の美術447 外国人建築家の系譜』、2003年〕。 ゲオルク・デ・ラランデ、ゲオルグ・デ・ラ・ランデ、ゲオルク・ド・ラランド、ゲオルグ・ド・ラロンド、ゲー・デラランデ、ゲオログ・デラランデ、ゲー・ヅララン等とも表記される。 == 略歴 == 1872年9月6日、ドイツ帝国を構成するプロイセン王国ヒルシュベルク(現:ポーランド領イェレニャ・グラ)で、建築家、オイゲン・デ・ラランデ(Eugen de Lalande)の長男として生まれる〔広瀬毅彦、『~没後百周年記念~ 既視感の街へ ロイヤルアーキテクト ゲオログ・デラランデ新発見作品集』、新たに発見された洗礼簿による、p49、2012年〕。ユダヤ系とされる〔Albert Axell, Hideaki Kase ''Kamikaze: Japan's Suicide Gods'' p.24, Longman, 2002〕。1894年シャルロッテンブルク工科大学(後のベルリン工科大学)を卒業し、ブレスラウ(現:ポーランド領ヴロツワフ)、グローガウ(現:ポーランド領グウォグフ)、ウイーン、ベルリン、上海、天津などで仕事をした後〔Shunjirou Kurita,『The Who's Who in Japan』、第三版(1914年版),1914年〕 、ドイツ人建築家リヒャルト・ゼールの招きで1903年に横浜へ渡った同年、ゼールがドイツへ帰国したため、建築設計事務所をそのまま引き継いだ。デ・ラランデは横浜だけでなく東京、京都、大阪、神戸、朝鮮など日本領内の各地を巡り仕事をした。ドイツ世紀末の様式であるユーゲント・シュティールの高田商会などでも知られる〔堀勇良、 前掲書〕。 1913年、母国プロイセンより、ロイヤル・アーキテクトの名誉称号を贈られた〔広瀬毅彦、前掲書、p439〕。 朝鮮総督府の仕事のため京城(現:ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、内地に戻って、1914年8月5日に東京で亡くなった。当時のドイツ語週刊新聞に掲載された死亡広告によれば、死因は肺炎である〔広瀬毅彦、前掲書、p445〕。なお、死因については、第一次世界大戦が勃発したことで租借地防衛のため青島へ渡るかどうか悩み、酒に溺れたため〔藤森照信、「西洋館は国電歩いて3分」、『建築探偵の冒険』、文庫版p281、初版は1986年刊行〕、あるいは「(日独)両国の対立に悩み、心労が重なって、心臓にショックを起こした」ため〔妻エディータの再婚後の孫にあたる東郷茂彦による。東郷茂彦『祖父東郷茂徳の生涯』、p78、1993年〕とも言われる。 妻エディータ(略称エディ、エヂ。旧姓ピチュケ)はデ・ラランデの死後、5人の子どもを連れてドイツに帰国したが、後に外交官・東郷茂徳(後の外務大臣)と再婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゲオルグ・デ・ラランデ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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