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ゲティスバーグからの撤退 : ミニ英和和英辞書
ゲティスバーグからの撤退[げてぃすばーぐからのてったい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
撤退 : [てったい]
  1. (n,vs) evacuation 2. withdrawal 3. revocation 4. repeal 5. retreat 

ゲティスバーグからの撤退 : ウィキペディア日本語版
ゲティスバーグからの撤退[げてぃすばーぐからのてったい]

ゲティスバーグからの撤退(ゲティスバーグからのてったい、英:Retreat from Gettysburg)では、南北戦争1863年7月3日ゲティスバーグの戦いが終わった後に、南軍北バージニア軍バージニア州に撤退した過程を概説する。南軍ロバート・E・リー将軍はゲティスバーグ北軍を敗れなかったので、メリーランド州を抜けてポトマック川を渡り、比較的安全と考えられるバージニア州までの後退を命じた。北軍のジョージ・ミード少将が率いるポトマック軍は、7月13日から14日に掛けての夜にポトマック川を渡った南軍に対して意義有る攻撃を掛けられるだけの素早い行動ができなかった。
南軍の物資と負傷者を乗せた輜重隊はペンシルベニア州キャッシュタウンを抜けてサウス山を越えて進んだが、その隊列の長さは15ないし20マイル(24ないし32 km)にも延び、厳しい天候と難儀させる道路さらには北軍騎兵の襲撃に耐えなければならなかった。リー軍歩兵隊の大半はペンシルベニア州フェアフィールドからモンテレー・パスを抜け、メリーランド州ヘイガーズタウンに向かった。ポトマック川まで到着すると、川が増水して舟橋を破壊し、直ぐに渡ることはできなかった。最低限の防御工作物を拵え、リー軍の撤退路のさらに南までの長い道路を追跡していた北軍の到着を待った。ミードが適切な偵察を行い南軍の防御工作物に攻撃を掛けられる前に、南軍は浅瀬や急拵えの橋を使って逃げることができた。

この撤退の間に起こった主に騎兵による戦闘、襲撃および小競り合いにはフェアフィールドの戦い(7月3日)、モンテレー・パスの戦い(7月4日-5日)スミスバーグ(7月5日)、ヘイガーズタウン(7月6日と12日)、ブーンズバラの戦い(7月8日)、ファンクスタウンの戦い(7月7日と10日)およびウィリアムズポートとフォーリングウォーターズ周辺での戦い(7月6日-14日)があった。南軍がポトマック川を越えてからは、バージニア州でシェファーズタウン(7月16日)とマナサスギャップの戦い(7月23日)が起こり、これで6月から7月に掛けてのゲティスバーグ方面作戦が終わった。
== 背景 ==
3日間にわたって行われたゲティスバーグの戦いの頂点は、ピケットの突撃と呼ばれる大規模な歩兵による猛攻であり、南軍によるセメタリーリッジに陣取った北軍中央に対する攻撃はかなりの損失を出して撃退された。南軍はセミナリーリッジの自陣に戻り、反撃が来るのに備えた。7月4日の夜になっても北軍の反撃は無かったので、リーはこのゲティスバーグ方面作戦ではもはや成すべき事もなくなり、そのボロボロになった軍隊をバージニア州まで連れて帰る必要があると認識した。ペンシルベニア州の田園地帯でその軍隊を食わせていくという物資調達能力も衰え、北軍は時間が経てば容易に援軍を連れて来られるはずなのに、リー軍ではその期待も無かった。リー軍の砲兵隊長ウィリアム・N・ペンドルトン准将が、その長距離砲の弾薬が全て使い果たされ、短時間で補給できる見込が無いと報告した。しかし、多くの上級将校を含め2万名以上の将兵の損失があったにも拘わらず、リー軍の士気は高いままであり、この逆境にあってもその指揮官に対する尊敬の念は衰えていなかった〔Coddington, pp. 535-36; Wittenberg et al., p. 39; Brown, pp. 9-11.〕。
リーは部下の指揮官数人との作戦会議後、7月3日の夜に撤退の準備を始めた。リチャード・イーウェル中将の第2軍団をカルプスヒル地域からゲティスバーグの町を抜けてオークリッジやセミナリーリッジまで退かせてその戦線を固めた。兵士達は胸壁や射撃壕を造り、マンマスバーグ道路からエミッツバーグ道路まで前線は2.5マイル (4 km) の長さに及んだ。この方面作戦の間に大量に捕獲されていた装備や物資を運ぶ長い輜重隊を、歩兵隊の動きに先立ってできるだけ早く後方に下げることに決めた。この輜重隊には8,000名の負傷兵を乗せた救急車も含まれていた〔Sears, p. 471; Gottfried, p. 278: Imboden は輜重隊に12,000名の負傷兵がいたと主張した。〕。それには移動できる者や重傷を負った主要な将官何人かも含まれたが、あまりに重要なので放棄できないものも含まれた。南軍負傷兵の多く、6,800名は北軍野戦病院で治療するために残され、リー軍の軍医数人が選ばれて彼等と共に残った〔Wittenberg et al., pp. 28, 29, 36; Coddington, pp. 536-37.〕。
南軍がサウス山を越えてカンバーランド渓谷(シェナンドー渓谷のメリーランド州とペンシルベニア州の部分)に向かうには2つの径路があり、そこからは南に下ってウィリアムズポートでポトマック川を越えることとされた。この2つの径路の1つは、チェンバーズバーグの方向にキャッシュタウンを抜けるチェンバーズバーグ道路であり、もう1つはフェアフィールドやモンテレー・パスを抜けてヘイガーズタウンに向かう短い径路だった。南軍にとって幸運だったことに、このときは偵察や遮蔽の用途にその騎兵隊を十分利用することができた。J・E・B・スチュアート少将の最良の騎兵3個旅団は、この方面作戦の間本隊とは別行動で襲撃を行っていたために、方面作戦初期にはその能力を使えていなかった〔Coddington, pp. 537-38; Gottfried, p. 278; Wittenberg et al., p. 5.〕。
しかし、南軍にとって不運なこともあった。ポトマック川まで到着すると、渡河が難しいことが分かった。7月4日に始まった車軸を流すような雨がウィリアムズポートでは川を溢れさせ、浅瀬を渡ることは不可能だった。4マイル (6 km) 下流のフォーリングウォーターズでは、ハーパーズ・フェリーを進発したウィリアム・H・フレンチ少将の北軍騎兵隊が、7月4日にあまり守備隊を置いていなかったリー軍の舟橋を破壊していた。川を渡る唯一の方法はウィリアムズポートの小さな渡し船だった。南軍は罠に嵌った状態となり、川を背後にしてミード軍に対し自隊を守る必要に迫られた〔Wittenberg et al., pp. 160-61; Sears, p. 481.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゲティスバーグからの撤退」の詳細全文を読む




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