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ゲニウス
ゲニウス(genius、複数形は genii)は擬人化された精霊を指すラテン語である。古代ローマ人の信仰においては、ゲニウスは概して守護霊もしくは善意の霊とされ、悪霊は malus genius と呼ばれた〔Luck, Georg, ''Arcana Mundi - Magic and the Occult in the Greek and Roman Worlds'', The Johns ans Hopkins University Press, 2006.〕。一般的に言って、古代ローマの宗教におけるゲニウスとは、個人や場所や事物にあまねく現臨している普遍的な神性を個別化したものであり、換言すれば、万象に宿る非人格的な神的力を個別に人格化・神格化したものである。 ==宗教的背景== 古典古代の多神教は、地中海地方でアルファベットが使われるようになる前からキリスト教が興隆するまでの間、ギリシア=ローマ圏内の人々の宗教であったが、これらの諸教はあらゆるものに宿る普遍的な神性を奉じた。それは多神教もしくはペイガニズムという名の下に今なお研究対象になっている信仰である。神学者パウル・ティリッヒの指摘したように、多神教は単に複数の神を信仰するという単純なものではない。彼の観点では、それを区別するのは「統一的かつ超越的な至高者の欠如」である。かれのいう多神教の「普遍的類型」においては「場所や国土の神性のような特別な神的存在は…森羅万象の背後に隠されている普遍的な、あらゆるものに浸透する聖なる力(マナ)の具現化である…が、この統一性は真の統一性ではない。それは多様なものへと分かたれるものを超え出ることはない。」かれのいう「神話的類型」については、ティリヒは「祈りのひととき、ひとが祈りを捧げる神は絶対者である…これは真実である、次に別の神に祈りを捧げる時はその神が同じ役割をもっているという事実があるにしても。多様な神々がいようとも、この種の独占的経験の可能性は、神的なものの同一性の感覚を表しているのである…」と述べる。 「いまだに古い宗教を奉じている田舎の人々」という偏見的な意味である、キリスト教徒とキリスト教から除外されるべき「異教徒」というキリスト教的言葉の用法に対抗して、ガース・ファウデンは「ケンブリッジ古代史」にて偏見の少ない多神教という言葉を採用している。ファウデンによれば「いかなる神格も…至高性と全能性を主張しえた。しかしその神がかく為しえたのは、他の環境において同じように至高とみなされうる他の神々と同化することによってであった。」ファウデンはこの見方をシンクレティズム(諸教混淆・習合)と呼び、プロティノスを引用(「ひとは讃えるべきである…かの他界の偉大なる王を、わけても数多くの神々のうちにその偉大さを誇示していることに。神的なるものが一者に集約されるのは縮小ではなく、神自身が多様性において示すところの、その多様性のうちに単一性を顕すことである…かれはそこに留まりながら多くのものをつくるからである…かれ自身に依存し、かれを通じて存在し、かれより生ずる一切のものを」)して「この見方とプロティノスの考え方は基本的に相違するものではない」と考察している。 神性は単数形では ''deus'' または ''divinitas'' だが、特定の力に細分された場合は複数形で ''dei'' となる。そのような個々の力をラテン語でゲニウスと呼んだ。これはギリシアのダイモーンと同一視された。神性はその力を示すことで知ることができるとされた。物理的エネルギーの概念がなかったため、古代人にとっては何らかの現象を引き起こす力は全て神性の証だった。神性はその力の現れ方によって区別された。海の神はネプトゥーヌス、火の神はウゥルカーヌスといった具合である。名前のついた神話内の神々は、全て何らかのゲニウスだった。しかしさらに、個々の人間が持つ理性的な力と能力はその魂に起因するものとされ、それもゲニウスとされた。個々の場所にもゲニウス(ゲニウス・ロキ)があり、それゆえ火山などの力の溢れるものがあるとされた。この概念はさらに拡張されていき、劇場のゲニウス、ブドウ畑のゲニウス、祭りのゲニウスといったものが考案された。これらのゲニウスはそれぞれ上演の成功、ブドウの実り、祭りの成功を司るとされた。古代ローマ人にとって、何か大きなことを成し遂げようというとき、対応するゲニウスをなだめることが非常に重要だった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゲニウス」の詳細全文を読む
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