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ゲーム機(ゲームき、)は、ゲーム(コンピュータゲーム)を動作させるためのハードウェア機器の総称。ゲームソフトの略称「ソフト」に対して「ハード」とも呼ばれる。コンシューマーゲーム(テレビゲーム/携帯型ゲーム)機を「家庭用ゲーム機」と呼ぶ場合もあり、ゲーム機の形態から「据置機(据え置き機・テレビゲーム機)」と「携帯機(携帯型ゲーム機)」に分類される。また、一般的に単に家庭用ゲーム機という場合、「据置機」を指すことも多い。2000年代以降にはAV(オーディオ・ビジュアル)機能や「パッケージ版」に加えて、「ダウンロード版」が用意されることも多くなった〔ゲーム白書2009に見る、ゲーム機市場の大転換期~急増するゲームコンテンツのダウンロード 〕〔「ゲーム機が無くなる日」を示唆したゲーム白書、「50代のゲーム利用増加」を裏付けたCESA報告書 〕。 *世界のゲーム機の歴史を各世代ごとに年代順に分けて述べる。より詳しくは海外版記事も参照のこと。日本市場のみに限定された歴史については日本におけるゲーム機戦争を参照のこと。 *世代分けはアメリカに準拠しているが、出典により食い違いも見られる。 == 歴史 == ここではゲーム機と呼ばれているものがどのようにして確立したかを年代順に簡略に述べる。 ゲーム機が誕生した1970年頃には、コンピューターと言えばスパコンやミニコンなど、軍や大学で使われる高価なシステムしかなかった。初期のコンピューターゲームで最も有名なものとしては、ミニコン上で書かれ不特定多数の大学生に遊ばれた宇宙戦ゲーム『スペースウォー!』が挙げられる。その後、ゲームは4つの道を通って発展した。 # 店頭に設置して有料で遊ぶ「アーケードゲーム」 # 消費者が家庭で楽しむ「テレビゲーム」 # パソコン上でアプリケーションの一種として動作する「パソコンゲーム」 # 電卓の技術を応用して作られた「電子ゲーム」 1972年、史上初のビデオゲーム機が登場するが商業的に成功せず、最初に商業ゲームとして成功したのはアタリ社のアーケードゲーム『ポン』だった。ビデオゲームは、それまでゲームセンターで人気を博していたピンボールを瞬く間に駆逐した。アーケードビデオゲームは次第に内容が複雑化していき、ワイヤードロジックの回路では実現が難しくなるにつれマイクロプロセッサーが採用されるようになっていった。1970年代中盤に登場した最初期のテレビゲーム機(第1世代)は、それらのアーケードゲームを家庭で手軽に楽しむためのものであった。当初のテレビゲーム機は、初期のアーケードゲーム同様にワイヤードロジックで構成されていたため、1ハード1ゲーム、もしくは複数のゲームをスイッチで切り替える方式だった。第2世代(1970年代後半 - 1980年代前半)では、1つのハードでさまざまなゲームをプレイしたいというユーザーの欲求に応えるため、ハードにゲームソフトを組み合わせることで、コンピューターゲームをプレイすることができるシステムが採用された。ソフトの供給メディアはカセットテープを採用したマシンもあったが、Atari 2600はカートリッジでプログラムを供給するカートリッジ交換式のシステムを採用し、それが標準となった。1979年には史上初のサードパーティーが誕生し、ここで、ゲーム機本体を販売する産業とは別に、ゲームのプログラムそのものを販売して利益を上げるゲーム産業が誕生した。このAtari 2600によってテレビゲームのイメージがほぼ確立されたが、1982年にいわゆるアタリショックが起きた。 1977年には、各社からパーソナルコンピュータ(8ビットパソコン)の販売が始まった。この頃すでにテレビゲームやアーケードゲームはしており、パソコンのユーザはこれらのアーケードゲームを無料で楽しむために、アーケードゲームを真似たパソコンゲームを競って自機上にプログラミングし、互いに交換しあった。パソコンゲームはその後アドベンチャーゲームやロールプレイングゲーム、シミュレーションゲームといった、同時代のアーケードゲームやコンシューマーゲームとは異なる分野で発展を遂げていくことになる。 1970年代後半のゲーム機やパソコンに使用されたCPUは4ビットまたは8ビットで、複雑化してきたアーケードゲームには画像処理機能が不足していた。そのためアーケードゲーム基板では、表示装置に特別仕様の画像処理回路を追加するようになっていた(代表的なものがスプライト機能とハードウエアスクロール機能である)。これらの処理回路は高価でありサイズも大きかったのでテレビゲーム機に搭載することが困難であり、アーケードゲームのテレビゲームに対する優位性として働いた。 1970年代後半には携帯型ゲーム機も人気となった。1979年には既にカートリッジ交換型携帯型ゲーム機が登場していたが、当時は技術的な制約から他の形態と比べて十分な製品を作れずにいた。かわりに主流となっていたものが電子ゲームと呼ばれるものであった。電子ゲームとは電卓の技術を応用したもので、アーケードゲームやパソコンゲームとはまったく別系統に生まれたものである。表示装置としては特定の形状を表示する液晶や発光ダイオードが使われた。汎用のグラフィック表示機能を備えておらず、必然的に1ゲーム1ハードが基本であった。 第3世代(1980年代前半 - 1980年代中盤)では、エレクトロニクス技術の進歩によって、テレビゲーム機にも簡略化・低価格化を施されたスプライト機能とハードウエアスクロール機能が追加されていった。任天堂のファミリーコンピュータは、サードパーティーによるソフトウェアの製造をライセンス(ゲーム機メーカがサードパーティーにゲームソフトウエア開発・販売を許諾する)形式にし、ゲームソフトメーカからのライセンス収入を見込むことでゲーム機のハードウェア自体を低価格で販売することができ、それによりゲーム機所有者数が増えることでゲームソフトメーカも恩恵を得ることができた。 1980年代後半には、パソコンの性能向上速度が加速し最新機種が入れ替えられていったために、ゲームに対するパソコンのプラットフォーム性が失われた一方、相対的に機種変更頻度が少ないゲーム機はそのプラットフォーム性が高まった。パソコンやゲーム機などで、単一の機種が長期的に基本性能が変わらないまま販売され続ける(商品寿命が長い)と、その機種はひとつのプラットフォームとして認識され、その機種で他機種用のゲームを遊べるよう多くのソフトウェアが製作された(いわゆる移植)。「プラットフォームハードウェアと多数のソフトウェア」という手法は、ハードウェアの進歩や新しいプログラミング手法の導入〔これらのゲーム機のソフトはほとんどがアセンブリ言語で記述されていたが、世の中のプログラミングはC言語などに移行しつつあった。〕を阻害するものではあったが、ゲームソフトという特定の先鋭分野における競争と技術開発を促進することでゲームソフト業界を急速に発展させる一因にもなった。第4世代(1980年代後半 - 1990年代前半)ではさらにゲームソフトの技術力や表現力が向上し、より高性能のハードウェアが求められるようになり、ゲーム機専用のプロセッサ類が設計されるようになった。それまでのゲーム機は、パソコン用チップや汎用製品を流用したものが多かったが、この時代になるとゲーム機はゲーム用途としてはパソコンをはるかに凌ぐ性能を持つとのイメージが確立された。また、他のハードウエア形態と遜色がない十分な性能をもつ CPU とグラフィック表示装置を備えるカートリッジ交換型の「携帯型ゲーム機」がこの頃に発売され、人気を得るようになった。なお、2000年代以降のゲーム機では再び据置機(テレビゲーム機)・携帯機・アーケードゲーム・パソコンゲームの区別が曖昧となるが、下記で詳しく述べる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゲーム機」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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