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コウォ(、)は、ポーランド中部のヴァルタ川沿いにある町。人口2万3101人(2006年)。コニン県を経て1999年からヴィエルコポルスカ県に所属する、コウォ郡の中心地である。 == 歴史 == コウォは、1362年にポーランド王カジミェシュ3世から町としての権利を得た〔"Koło" - Encyclopedia of Jewish Communities in Poland, Volume I 〕。ヴァルタ川支流の中洲に築かれた王城近くの安全な所にあるため、市壁はなく、門が2箇所設けてあるだけであった。王領地にあることから町は王立都市として、その王領地の中心地になった。 1410年、コウォに大ポーランド地方の貴族が会し、チュートン騎士団との戦争について協議した(グルンヴァルトの戦いを参照)。1452年には、コウォの王城でカジミェシュ4世とプロシア連合の代表者らが会見した(十三年戦争参照)。 ポズナニ県、カリシュ県、シェラズ県、ウェンチツァ県、ブジェシュチ・クヤフスキ県、イノヴロツワフ県からなる大ポーランドの地方会議は15世紀から1716年まで、コウォで開かれていた。 地域の貿易と手工業、特に金属工業と織物業の中心地として町は発展した。16世紀になるとヴァルタ川右岸のズドゥニ地区が陶業で成長し、1559年に別々の町となった。コウォはリソフスキの軍勢(1622年)とスウェーデン(1655年)による二度の破壊を受け、17世紀末の経済は持ち直すのがやっとであった。 1793年まで、コウォはカリシュ県コニン郡に所属していた。1793年から1806年にかけてプロイセン王国に占領されたが、1794年のコシュツィウシュコの蜂起で反乱軍によって一時的に解放された。1807年から1815年までワルシャワ公国に、その後はポーランド立憲王国に支配された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コウォ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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