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コシャマインの戦い(コシャマインのたたかい)は、1457年に発生したアイヌと和人(渡党)の戦い。 == 概要 == 応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた和人(渡党)に対するアイヌの武装蜂起。現在の北海道函館市にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬〔ほかに「胡奢魔犾」「胡奢麻尹」「胡奢魔尹」といった表記も見られる。〕、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、松前藩形成の元となった。 当時、和人は既に渡島半島から道南に進出しており(渡党、道南十二館などを参照)、製鉄技術を持たなかったアイヌと鉄製品などを交易していた。アイヌの男性〔『新羅之記録』では「乙孩(おつがい)」とありアイヌ語のokkay(オッカイ)に相当する。しかし『松前年代記』では「乙孩」は「少年夷」の意味だとしている。そこで、この「乙孩」を、アイヌの「少年」と解釈し、そう説明している書籍も多い。しかし少なくとも近世以降残されているさまざまな記録からすると、アイヌ語のokkayは男性一般をさす言葉であり、若年のみを指す言葉ではない。そもそも、高価な品物である鉄製品を子供に取り引きさせるものか、疑問が残る。〕が志濃里の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。 1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、首領コシャマインを中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍は更に進撃を続け、和人の拠点である道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。 この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある〔入間田宣夫ほか 99年〕。 アイヌ対和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)。 なお、1994年(平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コシャマインの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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