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コソヴォ・ポリェ(セルビア語:)は、コソボ中央部の平原であり、プリシュティナから北西に5キロメートル程度、ラブ川(Lab)とシトニツァ川の合流地点にあたるこの一帯は、1389年にセルビアの諸侯がオスマン帝国の軍勢と戦ったコソボの戦いの戦場であったと考えられている。 ここから6キロメートルほど南西にあるフシェ・コソヴァ / コソヴォ・ポリェの町や、オスマン帝国のコソボ州、そしてコソボの語源となった地名である。 呼称は「クロウタドリの平原」を意味しており、セルビア語の呼称はコソヴォ・ポリェ()、ブルガリア語ではコソヴォ・ポレ()、トルコ語ではガジメスタン()と呼ばれるほか、ドイツ語名アムゼルフェルト()で言及されることもあり、また日本語の文献ではコソボ平原、コソボが原と書かれることも多い。 ガジメスタンはコソヴォ・ポリエの南西にある、コソボの戦いを記念した記念碑の呼称でもある。記念碑は平原から50メートルほどの小高い丘の上にある。記念碑は1953年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国の下で建造され、アレクサンダル・デロコ(Aleksandar Deroko)の設計によって中世の塔をかたどってつくられた。 コソヴォ・ポリェはマケドニア共和国のスコピエとセルビアのクラリェヴォを結ぶ道路の途上にあり、記念碑は道路から500メートルほど西にある。ガジメスタンの呼称はトルコ語で英雄を意味するガズィ(gazi)に由来し、この単語はアラビア語で戦士を意味するガーズィー(ghazi)から来ている。 記念碑の場所は、1989年のコソボの戦い600周年に際してスロボダン・ミロシェヴィッチが行ったガジメスタン演説の場となり、この演説はユーゴスラビアでの民族対立を刺激したものとして悪名高い。記念碑は国際的な平和維持部隊によって常時護衛されている。 記念碑には、コソボの戦いで処刑されたラザル・フレベリャノヴィチのものとされる呪いの言葉が刻まれている : セルビア人でセルビア人に生まれつき : そしてその血を受け継ぎ : そしてコソボに来て戦わぬ者たち : 彼はどれほど望んでも子孫を持つことは叶わないだろう : 息子も娘もないだろう : 彼の手から蒔かれた種は決して実らないだろう : 黒いブドウも、白い小麦もないだろう この呪いが初めて文献に記されたのは1845年版の、ヴーク・カラジッチによるセルビア民謡集である。 == 外部リンク == * http://www.yuheritage.com/pristina1.htm * http://www.kosovo.net/news/archive/2006/October_03/5.html 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コソヴォ・ポリェ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gazimestan 」があります。 スポンサード リンク
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