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コトル湾 (セルビア語: 、'; クロアチア語: ; )は、モンテネグロ南西部にある、アドリア海に面した曲がりくねった湾の総称である。湾は時にはヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれ、実際、オリエン山の標高の高い台地から流れるボケリ川が、海に浸食されて、川渓谷となっている。モンテネグロの重要な観光地である。 古代から湾内には人が定住し、中世からの町が良い状態で保存されている。コトル、リサン、ティヴァト、ペラスト、ヘルツェグ・ノヴィといった美しい町がその美しい自然環境とともにあり、主要観光地となっている。 湾周囲の陸には信仰の遺産がある。数多くの正教会とカトリック教会らキリスト教教会、そして修道院がある。観光地である一方、主要巡礼地の一つでもある。 モンテネグロ政府は、コトル湾にヴェリゲ橋という橋を架ける計画を持っている。; クロアチア語: ; )は、モンテネグロ南西部にある、アドリア海に面した曲がりくねった湾の総称である。湾は時にはヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれ、実際、オリエン山の標高の高い台地から流れるボケリ川が、海に浸食されて、川渓谷となっている。モンテネグロの重要な観光地である。 古代から湾内には人が定住し、中世からの町が良い状態で保存されている。コトル、リサン、ティヴァト、ペラスト、ヘルツェグ・ノヴィといった美しい町がその美しい自然環境とともにあり、主要観光地となっている。 湾周囲の陸には信仰の遺産がある。数多くの正教会とカトリック教会らキリスト教教会、そして修道院がある。観光地である一方、主要巡礼地の一つでもある。 モンテネグロ政府は、コトル湾にヴェリゲ橋という橋を架ける計画を持っている。 == 歴史 == 近郊の村落リサンは、紀元前229年頃にリゾン(Rhizon)と呼ばれたイリュリア人の栄えた都市であった。リゾンはその名を湾に与え、リゾニクス・シヌス(Rhizonicus Sinus)と呼ばれた。リゾンは紀元前168年に古代ローマへ従属し、同時期のアクリヴィウム(AcriviumまたはAcruvium、現在のコトル)はこの頃初めて近隣都市として歴史に名を現した。 コトル(本来はカッタロ、Cattaro)は中世初期以降要塞化され、この時代を通してローマ化したイリュリア人のダルマチア都市の一つとして影響力を持っていた。後にブルガリア帝国、そしてセルビア王国に統治され、中世セルビア王らの保護政治の元で半ば独立した共和国となった。コトル商人の船と重要性は次第に増し、14世紀終わりにセルビアが没落しオスマン帝国が台頭すると、コトル湾はヴェネツィア共和国の支配下に置かれた。コトル湾の一部は15世紀終わりにトルコに征服され、ヴェネツィアはカッタロ市を含む南西部を保持していた。トルコ領は17世紀終わりに取り戻され、湾全体がヴェネツィア領アルバニア・ヴェネタ(:en:Albania Veneta)に含まれた。20世紀まで、旧トルコ領と旧ヴェネツィア領との違いは明かであった。なぜなら旧トルコ領は正教会信徒が多数を占め、旧ヴェネツィア領はカトリックが多数派だったからである。 ボケリ家は非常に強い艦船を持ち、18世紀には30隻を数えた。湾は、ドゥブロヴニクとヴェネツィアのライバルであった。 19世紀初頭、コトル湾一帯の地方はナポレオン・ボナパルトの傀儡国家イタリア王国に含まれ、のちフランス第一帝政の地方行政区画イリュリア州となり、フランス帝国に組み込まれた。その後、ロシア帝国の支援を受けたモンテネグロ主教公ペータル1世ペトロヴィッチ=ニェゴシュ(:en:Petar I Petrović Njegoš)に征服され、1813年に湾全てがモンテネグロに併合された。 1815年、湾はオーストリア帝国(1867年以降オーストリア=ハンガリー帝国)に併合され、ダルマチア県に含まれた(1867年以降チスレイタニア)。1848年、モンテネグロ主教公ペータル2世ペトロヴィッチ=ニェゴシュ(:en:Petar II Petrović-Njegoš)は、ハプスブルク支配下にあるダルマチア、クロアチア、スラヴォニアを統合しようと試み、クロアチアのバンであるヨシップ・イェラチッチのため1848年革命を戦うよう住民たちに助言した。しかし、最初から明白にセルビア統一の立場を取っていたコトルの住民集会はこれを拒絶した。 第一次世界大戦中、カッタロはオーストリア=ハンガリー帝国海軍の作戦基地として整備され、潜水艦部隊などの根拠地が置かれたほか、大戦中期にはポーラ軍港から艦隊主力の一部も移駐してきた。モンテネグロ王国はコトル湾を手に入れようとし、ロヴチェン山(:en:Lovćen)から爆撃を行った。しかし、1916年からオーストリアはモンテネグロを打ち負かした。1918年11月7日、セルビア軍が湾に入り、解放者として人々に歓迎された。オーストリア帝国下の住民の自己決定権受託によって、コトル湾地方は自らセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国の一部となることを宣言した。一ヶ月の内に、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国が形成され、1939年にはユーゴスラビア王国と改名した。コトル湾は1922年に廃止されるまでダルマチアの基礎自治体の名前であった。ゼタ州へ併合され、1939年以降ゼタ県となった。 1818年の統計によれば、地域には29,899人の住民がいた。21310人は正教会信徒で、8589人がカトリックであった。当時、正教会信徒人口が多いのはコトル、リサン、グルバリ、ブドヴァ、ヘルツェグ・ノヴィであった。カトリックが優勢なのは、ドブロタ、プルチャニ、ストリヴ、コトルのコンタダ、ペラストであった。 1848年、セルビアのコトル防衛隊はペータル2世ペトロヴィチ・ニェゴシュのクロアチア=スラヴォニア統合の提案を拒否し、別のスラヴ国家(すなわちモンテネグロ)と統合する前にセルビアと統合しなくてはならないという姿勢を示した。 1880年における、ボカ地方(ボカ・コトルスカ、コトル湾地方を指す名称)の沿岸基礎自治体だけで人口は以下の通りであった。: * ヘルツェグ・ノヴィ = 正教会信徒3,314人、カトリック教徒1,469人 * コトル = カトリック教徒7,051人、正教会信徒3,077人 * リサン = 正教会信徒1,910人、カトリック教徒860人 基礎自治体コトルでは、クルトレは899人の正教会信徒に対しカトリック教徒は89人であった。基礎自治体リサン及びペラストでは、カトリック教徒683人に対し正教会信徒327人であった。 1890年における、ボカ地方の沿岸基礎自治体だけで人口は以下の通りであった。: * ヘルツェグ・ノヴィ = 正教会信徒3,377人、カトリック教徒1,274人 * コトル = カトリック教徒7,409人、正教会信徒2,983人 * リサン = 正教会心と1,842人、カトリック教徒1,000人 1900年における、ボカ地方の沿岸基礎自治体だけで人口は以下の通りであった: * ヘルツェグ・ノヴィ = 正教会信徒3,460人、カトリック教徒1,817人 * コトル = カトリック教徒7,591人、正教会信徒3,458人 * リサン = 正教会信徒1,830人、カトリック教徒906人 1900年における、ボカ地方の基礎自治体全ての人口は以下の通りであった。: * ブドヴァ = 正教会信徒5,526人、カトリック教徒1,537人 * ヘルツェグ・ノヴィ = 正教会信徒7,377人、カトリック教徒2,198人 * コトル = カトリック教徒7,617人、正教会信徒7,207人 * リサン = 正教会信徒4,020人、カトリック教徒1,385人 1910年における、ボカ地方の沿岸基礎自治体のみでの人口は以下の通りであった。: * ヘルツェグ・ノヴィ = 正教会信徒3,893人、カトリック教徒2,599人 * コトル = カトリック教徒9,188人、正教会信徒3,554人 * リサン = 正教会信徒1,884人、カトリック教徒1,215人 1910年の調査によると、コトル湾地域には40,582人の住民がいた。そのうち、24,794人が正教会信徒、14,523人がカトリック教徒であった。しかし、同時期のコトル湾沿岸地域には22,823人の住民がおり、そのうち13,002人がカトリック、9,331人が正教会に属していた。 1918年から、コトル湾はセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラビア王国と改名)の一部となった。1918年から1922年にかけ、ボカ地方はコトルが別の郡となっていた。1922年から1929年の間、コトルはゼタ州に、1929年から1941年までゼタ県(:en:Zeta Banovia)の一部となっていた。1921年の調査によれば、ボカ地方には36,539人の住民がおり、正教会信徒は23,777人、カトリック教徒は12,342人であった。 1941年4月、イタリア軍がコトル湾地方を占領した。1943年9月まで、イタリア領ダルマツィアに併合されていた。1945年以降、モンテネグロ共和国の一部となった。 今日、地方の住民のほとんどが正教会信徒(セルビア人かモンテネグロ人を自称)であり、11%のカトリック教徒はクロアチア人を自称している。 コトル湾地方は、非常に豊富な文化遺産をもつためにUNESCOの保護のもとにある。そこには、かつてあったアルバニア・ヴェネタの最後の名残である、500人ほどのヴェネツィア方言を話す人々が暮らす小さなイタリア人コミュニティーすらあるのである。 1979年、一帯は地震に襲われ、多くの文化遺産が破壊されるか、深刻な損害を受けた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コトル湾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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