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コネチカット植民地(コネチカットしょくみんち、)は、1636年から1776年まで、北アメリカ現在のアメリカ合衆国コネチカット州の領域に存在したイギリス領植民地である。当初は川の植民地 (River Colony)と呼ばれ、ピューリタン貴族の受け入れ地として1636年3月3日に組織化された。初期のオランダとの闘争後、1630年代後半までにイギリスが恒久的な支配権を取った。この地域は後に、ピクォート戦争と呼ばれるイギリス人と先住民族の間の血腥い戦争の舞台となった。これは、チャーターオーク事件と呼ばれるニューイングランド自治領の地元権威に屈服するのを拒否した伝説的出来事と共に、新世界に自治政府を打ち樹てるために重要な役割を演じた。 今日のコネチカット州にあった2つのイギリス植民地、セイブルック植民地が1644年に、ニューヘイブン植民地が1662年にコネチカット植民地に併合された。 == 歴史 == この地域に入った最初のヨーロッパ人は1614年にロングアイランド湾を通り、コネチカット川を遡って今日のハートフォードまで行ったオランダ人探検家アドリアン・ブロックの遠征隊だった。このときその地域に住んでいたピクォート族に遭遇した。1620年代までに、ニューアムステルダムからのオランダ人交易業者がコネチカット川沿いに毛皮交易基地を設立し、その中でも著名な所は現在のハートフォード内、パーク川がコネチカット川に合流する地点に作られた「良い希望の家」(英語:House of Good Hope、オランダ語:Huys de Goede Hoop)だった。 1630年までに、北アメリカでオランダの強力な競争相手だったイギリスがニューイングランドの東海岸に幾つかの開拓地を創った。1620年のプリマス植民地、1623年のニューハンプシャー植民地および1630年のマサチューセッツ湾植民地などだった。イングランド王ジェームズ1世はニューイングランド評議会の議長第2代ウォリック伯爵ロバート・リッチに、ナラガンセット湾から西に太平洋岸までの地域への入植権を認可した。1631年、ウォリック伯はこの認可を北アメリカにおける逃避場所になりうる所としてイングランドにいる15人のピューリタン領主に譲渡した。この特許を受けた者達の中に、初代セー・アンド・シール子爵ウィリアム・ファインズやブルック卿、ジョージ・フェンウィック大佐等がいた。1635年、特許受権者達はマサチューセッツ湾植民地総督の息子、ジョン・ウィンスロップ・ジュニアを「川の植民地知事」として任命した。 ウィンスロップは1635年10月にボストンに到着し、オランダがコネチカット川河口の「パスベショーケ」(アルゴンキン語で河口という意味)と呼ばれる場所の占領を計画していることを知った。このオランダに対抗するために、ウィンスロップはエドワード・ギボンズ中尉とサイモン・ウィラード軍曹の指揮で20人の大工と他の作業者を小さな船に乗せてコネチカット川河口に派遣した。この遠征隊は11月24日に河口近くの西岸、今日のオールドセイブルックに上陸し、オランダの紋章を刻みつけてある木を特定した。彼等はその紋章を剥ぎ、楯を描きニッと笑っている顔を描き入れた。大砲のための砲台を建設し、小さな砦を造った。オランダ船が数日後に戻ってくると、大砲とイギリス船を見付けて撤退した。ウィンスロップはこの地点をファインズ(セイ子爵)とブルック卿に因んで「ポイント・セイブルック」と改名した。 1630年代にはイギリス人開拓者がニューイングランドの他の植民地からコネチカット川渓谷に移ってきた。1633年、ウィリアム・ホームズが1群の開拓者を率いてプリマス植民地からコネチカット川渓谷に入り、オランダの交易基地から北数マイルにウィンザーを設立した。1634年、ジョン・オールダムと一握りのマサチューセッツの家族がオランダの交易基地から南数マイルにウェザーズフィールドの地域に仮寓を建てた。次の2年間にマサチューセッツのウォータータウンから30家族がウェザーズフィールドでオールダムの追随者達に加わった。この地域のイギリス人人口は1636年に脹れ上がった。牧師のトマス・フッカーがリチャード・リスリーを含む100人の開拓者と130頭の牛を導き、マサチューセッツ湾植民地のニュータウン(今日のケンブリッジ)からコネチカット川の両岸に入り、古いオランダの砦とはパーク川を挟んで対岸にハートフォードを設立した。1637年、コネチカット川沿いの3つの町、ウィンザー、ハートフォードおよびウェザーズフィールドがピクォート戦争を戦うために共通の政府を樹立した。これらの開拓者達は自分達の規則と規制による新しい教会の社会を樹立したいと考えた。歴史家のヘンリー・S・コーンに拠れば〔Cohn, Henry S., Connecticut Colonial History 1636-1776, Connecticut State Library〕、「彼等は民衆によって選ばれていない執政官の権力に不満だった。しかし、彼等はその持っている土地を拡げたいとも思った。」 1638年夏、これらの町ではコネチカット基本条例を書き上げ、政府の原則、権力および構造を決めた。これらは1639年1月14日にコネチカット委員会に採択され、トマス・ウェルズによって公式記録に書き写された。コネチカットは1662年に王室勅許を受け、公式の王室領植民地になった。 ニューヘイブン植民地は異なる政体だったが、1662年の勅許のもとにコネチカットに併合された(ニューヘイブン植民地の住民は1565年1月5日に初めてコネチカットの支配を認識した可能性がある)。ニューヘイブンはイングランド王チャールズ1世を告発し1649年に死に至らせた判事のうち3人を匿っていたので、イングランドから大きな圧力を受けたためにコネチカットと合併した。この勅許が後に差し押さえられることになったとき、ある市民がオークの木の幹にそれを隠した。 ニューヘイブン植民地は1641年のレナペ族との協定により、デラウェア川の東西両岸の全域を所有すると主張することになった。この植民地は現在のフィラデルフィアで最初の何らかの形で開拓を始めた。その地域に住むニュースウェーデンやニューアムステルダムの住人がその開拓地を燃やし、そこはマサチューセッツ湾植民地によって否認された。ニューヘイブン植民地はこの試みから撤退したものの、そのレナペ族との協定で、デラウェアの東西に大西洋から太平洋まで全ての土地、いわゆる海から海までというコネチカットの領有権主張の根拠になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コネチカット植民地」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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