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コブルスキルの戦い(コブルスキルのたたかい、、またはコブルスキルの虐殺 )は、アメリカ独立戦争の1778年5月30日、ニューヨークのフロンティア開拓地コブルスキルで起きた愛国者軍と、ロイヤリストとイロコイ族連携部隊との戦闘である。戦闘が起きたのは現在のワーナービルの村、コブルスキル・リッチモンドビル高校近くだった。これは、ケベック植民地のイギリス当局が奨励し、物資を与えたロイヤリストとイロコイ族インディアンが、当時のニューヨークとペンシルベニア西部のフロンティアで多くの村を襲撃し破壊した動きの始まりとなった。 イロコイ族の小部隊がコブルスキルに入り、土地の守備隊の注意を引いた。これは、ジョセフ・ブラントの指揮するインディアンとロイヤリストのさらに大きな部隊が仕掛けた罠だった。多くの民兵を殺し、残りを追い払った後で、ブラントの部隊は開拓地の大半を破壊した。その年の後半、ニューヨークの守備隊はイロコイ族の集落を破壊することで、コブルスキルなど植民地集落に対してブラントが行ったことへの報復を行った。翌1779年のサリバン遠征では、大陸軍がさらに多くのイロコイ族集落を破壊した。 == 背景 == 1777年、イギリス軍将軍ジョン・バーゴインが、ハドソン川流域の支配を巡って作戦を展開した。バーゴインはこの年10月、サラトガの戦い後に降伏を強いられた。その後のアップステート・ニューヨークはフロンティア戦争となった〔Graymont, pp. 155–156〕。ケベック植民地のイギリス当局は、ロイヤリストとインディアンのゲリラ戦士に物資や武器を与えて支援した〔Kelsay, p. 212〕。1777年から1778年にかけての冬、ブラントなどイギリスと同盟するインディアンはニューヨークとペンシルベニアのフロンティア開拓地を攻撃する作戦を立てた〔Graymont, p. 160〕。1778年2月、ブラントはオナカガ(現在のニューヨーク州ウィンザー)にその作戦基地を作った。そこでイロコイ族とロイヤリストの混成部隊を集め、5月に作戦を開始した時点では200ないし300名になっていたと推計されている〔Barr, p. 150〕〔Kelsay, p. 216〕〔Graymont, p. 165〕。ブラントの目的の1つは部隊の食料を確保することであり、またサスケハナ川バレーでの作戦展開を計画していたジョン・バトラーの部隊にも食料を供給することだった〔Halsey, p. 207〕。 1778年、開拓地コブルスキルには、コブルスキル・クリーク沿いに広がった農園に住む20家族がいた。そこはスコハリー・クリーク地域に属し、愛国者軍の戦争遂行にとって重要な食料調達源だった〔''Proceedings of the New York Historical Society'', pp. 35, 37〕。防衛のための主力は、クリスチャン・ブラウン大尉が指揮する小さな民兵隊だった。1778年春、イロコイ族の攻撃が近付いているという噂が流れると、民兵隊は増援を要請した。大陸軍イカボッド・アルデン大佐が、そのマサチューセッツ第7連隊から、ウィリアム・パトリック大尉の指揮する兵士30ないし40名の中隊を派遣して、民兵隊を補強した〔Hart, p. 3:132〕〔''Proceedings of the New York Historical Society'', p. 37〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コブルスキルの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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