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コムストック・ロード(、またはコムストック鉱床)は、アメリカ合衆国で最初に発見された銀の大きな鉱床である。ネバダ州バージニア山脈の一峰ダビッドソン山の東斜面、現在のバージニアシティの下に位置している。その発見が1859年に公表されると、探鉱者達がこの地域に殺到し、その鉱業権登録を競い合った。間もなく近在に鉱業キャンプが出現し、大きな富を求める騒々しい中心地になった。 この鉱床が生んだ莫大な富や、その富がネバダ州とサンフランシスコの成長に果たした大きな役割もだが、これを切っ掛けにした鉱業技術の発展も注目されるべきである。鉱山そのものは1874年以降に衰退していった。 == 銀の発見 == 1858年にネバダ(当時はユタ準州内西部)で銀が発見されたことにより、カリフォルニア州を初めとするアメリカ合衆国全土でかなりの興奮を呼んだ。これはその10年前にカリフォルニア州のサッターズ・ミルで金が発見されて以来のことだった。当時のジャーナリスト、ダン・デ・クイルに拠れば、「銀の発見は、かなり広い範囲の領土に価値を与え、さらに大きな数の人々に雇用機会を与えたので、疑いもなくカリフォルニア州における金鉱発見以上の功績に値する」と記していた〔De Quille, Dan William ''A History of the Comstock Silver Lode & Mines,'' F. Boegle Publisher, (1889, repr. 1974), ISBN 0-88394-024-8〕。 この地域で1850年春に金が発見されていた。これはモルモン大隊に属していたモルモン教徒移民の集団によってゴールド・キャニオンで発見された。彼等はシエラネバダ山脈を超えるには早すぎる時期にこの地域に到着し、デイトンの近郷カーソン川沿いで宿営して、山の雪が融けるのを待った。間もなく選鉱鍋を使い砂利の多い川岸で金を見付けたが、カリフォルニア州に行けばさらに多くの金を見付けられると期待していたので、山に入れるようになった時にその地を離れた。他にも移民が続き、このキャニオンで宿営し、鉱山に働きに行った。しかし、夏の終わり頃にキャニオンの水が涸れてくると、カリフォルニア州に向かって山を越えていった。その宿営地には恒久的な住人が居なかった。1852年から1853年に掛けての冬と春、選鉱ロッカー、ロングトムおよび流し樋を用いてこのキャニオンの砂利土手で働く者が200名は居た。 ゴールド・キャニオンから出る金は石英脈からであり、その鉱脈の頭は現在のシルバーシティやゴールドヒルがある場所に近かった。坑夫達は水流を上って働いたので、台地の上にジョンタウンの町を設立した。1857年、ジョンタウンの坑夫達がゴールド・キャニオンの北約5マイル (8 km) のシックスマイル・キャニオンで金を発見した。これらのキャニオンはどちらも現在コムストック・ロードと呼ばれている。初期の坑夫は石英脈を調査するために谷間の頭に登っていこうとは考えず、標高の低い場所で、堆積土と砂利の表面に出た手に入れやすい金を見付けることに時間を費やしていた。 コムストック・ロードの発見が誰に帰せられるものであるかは諸説ある。1857年、ペンシルベニア州の牧師の息子で、カリフォルニア州の金鉱原で経験を積んだ鉱物学者、イーサン・アレン・グロシュとホウジーア・バロウ・グロシュの兄弟が発見したと言われてきた〔Smith, G., ''History of the Comstock Lode,'' (1943).〕。ホウジーアは1857年に足を負傷し、敗血症で死んだ〔Rechnitzer, Peter A.; ''R.M. Bucke: Journey to Cosmic Consciousness''. Fitzhenry & Whiteside, Markham, Ontario. 1994 ISBN 1-55041-155-1.〕。イーサン・アレンは資金を集めるために友人のリチャード・モーリス・バックを伴い、標本と権利を取得した地域図を持ってカリフォルニア州に向かった。ヘンリー・トンプキンス・ペイジ・コムストックがグロシュの小屋に残り、銀と金の鉱石見本と発見に関する書類を収めた鍵付きチェストを守っていた。グロシュとベックはカリフォルニア州に行き着かず、シエラネバダ山脈越えの道で迷い、大変な困難を味わっていた。この二人は凍傷になり、命を救う最後の手段として二流の外科医の手で四肢を切断した。イーサン・アレン・グロシュは1857年12月19日に死んだ〔Comstock, John Adams; ''A History and Genealogy of the Comstock Family in America''. Commonwealth Press, Inc. Los Angeles, California. 1949. (Note, this is a first-edition limited pressing original book. There is no ISBN for this book.)〕。バックは生きながらえたが、回復すると故郷のカナダに戻った。 コムストックはグロシュ兄弟の死を知った時に、その小屋と土地を自分の所有物として届けた。またトランクの中身を調べたが、教育を受けていなかったのでその文書を価値あるものとは考えなかった。彼が知り得たことは金と銀の標本が同じ鉱脈から出たということだった。グロシュ兄弟がまだ権利登録していないと分かったので、この地域で働く坑夫達の採掘現場を探求し続けた。コムストックは青みがかった石(銀鉱石)を発見したゴールドヒルに鉱脈があると分かると、即座にその地域に直接隣接する権利主張されていない土地を登記した。 ゴールドヒルの鉱床を発見した4人の坑夫は、ジェイムズ・フィンニー(古きバージニア人、当時の噂では殺人を犯した後に名前をフェニモアからフィンニーに変えたとのことだった)、ジョン・ビショップ(ビッグ・フレンチ・ジョン)、アレック・ヘンダーソンおよびジャック・ヨーントだった。彼等が発見したものは実際にコムストック・ロードの一部だったが、主鉱脈ではなかった。それゆえにこの4人は以前にグロシュ兄弟が発見した鉱脈を再発見した者とされている〔。 1859年春、ピーター・オライリーとパトリック・マクローリンという2人の坑夫が、ものになりそうな土地は全て権利主張されていることが分かったので、渓谷の頭に進み、近くの泉から水が流れ出している水流近くの山の斜面で選鉱用ロッカーを使って探査を始めた。そこには水で洗われた砂利が無かったので表面の土の中にはほとんど何も得られず、そこの権利主張を放棄しようとしたときに大きな成果を得た。彼等はそのロッカーに使う水を集めるために小さく長さのあるピットを沈めた。この穴の底に他とは違う外観の物質があった。これを掘り出すと底が金の層で覆われていたので、彼等は鉱脈を見付けたことを悟った。 この穴の中でアメリカにおける銀の鉱業が生まれたことになる。金と共にあったのは大量の重い暗青色の物質であり、これがロッカーを詰まらせ、純金を洗い出すのを妨げていた。しかしこれを分析すると、ほとんど混じり物の無い銀の硫化物だった。 この年の6月、オライリーとマクローリンがその発見を公表すると、ヘンリー・T・P・コムストックは自分が「放牧の目的」で既に権利主張したと伝えられている土地でこれら2人が動いていることが分かった。コムストックはゴールドヒルのその時点での権利主張に不満であり、かれら2人に脅しを掛けて、コムストック自身とその共同経営者イマヌエル・"マニー"・ペンロッドと共に権利に関する利益を彼等に認めるという取引に応じさせるよう努めた〔。 コムストック・ロードの位置について地理的な定義は曖昧で首尾一貫していない。ある報告では金鉱脈が「ウォーカー川の東支流」にあり、銀鉱脈は「シエラネバダ山脈の東斜面半ばあたり」で「カーソン川の西9マイル」となっていた〔Clark, Walter Van Tilberg ''The Journals of Alfred Doten 1849–1903,'' University of Nevada Press, (1973), ISBN 0-87417-032-X.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コムストック・ロード」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Comstock Lode 」があります。 スポンサード リンク
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