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ベルリン・ユダヤ博物館(, )は2001年にドイツの首都ベルリン・フリードリヒスハイン=クロイツベルク区に開館した市立博物館。1千年紀から今日までのドイツにおけるユダヤ人の歴史や生活の記録を収集・研究・展示している。引き裂かれたような特徴的な建物の設計者は、ポーランド生まれのユダヤ系アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンド。隣接する旧ベルリン高等裁判所建物("Kollegienhaus")も博物館の一部になっている。 プリンストン大学の教授であるマイケル・ブルーメンソールが開館前の1997年12月以来館長を務める。ブルーメンソールはベルリン生まれでナチス政権を逃れてアメリカに渡り、ジミー・カーター政権でアメリカ合衆国財務長官を務めた人物である。 == 沿革 == ベルリン最初のユダヤ博物館は1933年にオラニエンブルガー通りで設立されたが1938年にナチス政権により閉鎖された。戦後ユダヤ博物館の再開を求める声はあったが、1975年に「ユダヤ博物館のための協会」が結成されるまで具体化しなかった。1978年にベルリンの市立歴史博物館でユダヤ人の歴史展が開催されたのをきっかけに、ユダヤ人史部門が博物館内部に誕生し、ベルリンにユダヤ史博物館を新築するための議論も始まった。 1989年、ベルリン市政府は、歴史博物館の分館として新ユダヤ博物館を建てるための建築設計競技(コンペ)の開催告知を行った。翌年のコンペで選出されたのはダニエル・リベスキンドの案であった。他の案が展示しやすく見やすいニュートラルな空間を目指したのとは対照的に、リベスキンド案はジグザグであちこちに切れ目の入った傷だらけの建物であった。当時のリベスキンドは脱構築主義建築を論じたり、建ちそうにない建築案のドローイングを描いたりなどの活動で知られ、建築家でありながら実際の設計の仕事がなかったが、この入選を機に世界各地で設計の声がかかるようになる。 1991年7月、ベルリン市議会上院は、ドイツ再統一後の東西統一にかかる費用や将来のベルリン・オリンピック誘致にかかる費用が巨額になるとしてユダヤ博物館建設案を取りやめる決議を行った。しかしリベスキンドは世界の報道機関や文化人らに危機を訴え、ベンヤミン・ネタニヤフをはじめとする各国のユダヤ系政治家らからの支持も得た。こうした圧力から1991年10月にベルリン市は上院決議を覆しユダヤ博物館建設を進める決定を行った。 博物館の建設は1992年11月に開始され、1999年には建物が完成した。建物自体が多くの注目を集め、2001年9月9日の正式開館までに35万人が見学に訪れている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ベルリン・ユダヤ博物館」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jewish Museum, Berlin 」があります。 スポンサード リンク
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