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コレッジョ
アントニオ・アッレグリ・ダ・コレッジョ(, 1489年頃–1534年)は、ルネサンス期のイタリアの画家。 == 生涯 == 北イタリアのモデナの近くのコレッジョで生まれ、同地で没した〔コレッジョの生年は、40歳頃(没年1534年)に死んだというヴァザーリの記述から逆算して1494年頃と考えられてきた。現在では1489年頃が通説となっている。〕。パルマを中心に活躍した画家である。本名はアントニオ・アッレグリで、生地の町の名にちなんでコレッジョと呼ばれる。修業期の経歴については不明な点が多い。1506年頃マントヴァに移り、同地に重要な作品を残す画家マンテーニャの厳格な画風の影響を受けた。コレッジョは1519年頃にはパルマに移り、同地のサン・パオロ尼僧院の天井画、サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ聖堂の天井画などを手がけている。後者の天井画における効果的な短縮法(遠近法の技法の一種)の使用や、天井に開いた穴から本物の空を見上げているような錯視効果をねらった表現は、マンテーニャの影響によるものであろう。 パルマのサンタントニオ聖堂の祭壇画として描かれた『聖ヒエロニムスのいる聖母』(1527年–1528年)は、聖母、幼児キリスト、マグダラのマリア、天使らの甘美な表情のなかに宗教的崇高さをも表現した代表作である。スフマート(輪郭線を煙がかかったように柔らかく表現する技法)を生かした作風にはレオナルド・ダ・ヴィンチの影響が見て取れる。この作品は「イル・ジョルノ(昼)」と通称され、「ラ・ノッテ(夜)」の通称をもつ『キリストの降誕』(1529年–1530年頃)と対で紹介されることが多い。 このように、コレッジョの作品には複数の様式の影響が見られる。1530年、妻に先立たれたコレッジョは故郷に帰り、1534年、40歳代半ばで没している。この時期の注目すべき作品群としては、マントヴァのゴンザーガ家のフェデリーコ2世の注文による『神々の愛』の連作(1530年–1531年頃)がある。連作の中でも「ダナエ」や「イオ」に見られるエロティシズムには、次世代のバロック絵画につながるものが感じられる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コレッジョ」の詳細全文を読む
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