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ザ・バーバリアン(The Barbarian)のリングネームで知られるシオネ・ヴァイラヒ(Sione Havea Vailahi、1958年9月6日 - )は、トンガ・ヌクアロファ出身のプロレスラー。 大相撲朝日山部屋出身の元力士であり、プロレス転向後はコンガ・ザ・バーバリアン(Konga the Barbarian)の名義で新日本プロレスに度々来日した。 ノード・ザ・バーバリアンことジョン・ノードとは別人。両者は1991年下期から1992年上期にかけて、WWFを共にサーキットしていた(当時のノードのリングネームは「ザ・バーザーカー」)。 レスラー間では、バーブ(Barb)の愛称で呼ばれた〔『ロード・ウォリアーズ 破滅と絶頂』P254(2011年、東邦出版、ISBN 4809409511)〕。姪のセイニー・トンガもプロレスラーであり、レイディー・タパ(Lei'D Tapa)のリングネームでTNAに出場している。 == 来歴 == 1974年末、福ノ島ことウリウリ・フィフィタ(後のキング・トンガ、ハク、ミング)らと共にトンガ国王の命で来日し、大相撲の朝日山部屋に入門。幸ノ島の四股名を与えられ、1975年3月に初土俵を踏むが、部屋の後継問題が原因で1976年9月に廃業を余儀なくされる(トンガ人力士廃業騒動)。その後アメリカに渡り、元AWA世界タッグ王者レッド・バスチェンに師事。1980年、カリフォルニア地区でキラー・カール・クラップを相手にプロレスラーとしてデビューした。 当時はトンガ・ジョン(''Tonga John'')をリングネームに、ジミー・スヌーカ系のアイランダー・ギミックのベビーフェイスとして活動。1981年からはNWAのミッドアトランティック地区やセントラル・ステーツ地区、プエルトリコのWWCなどを転戦し、コンガ・キッド(''Konga Kid'')やキング・コンガ(''King Konga'')などの名前で試合を行った。WWCでは1984年7月7日、ヘラクレス・アヤラからプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取している。 1985年より、当時大人気だったロード・ウォリアーズのビジュアル(モヒカン刈りに顔面ペインティングのマッドマックス・スタイル)を真似たヒールに変身。コンガ・ザ・バーバリアン(''Konga the Barbarian'')と改名してミッドアトランティック地区に戻り、ポール・ジョーンズ率いるヒール軍団に加入してスーパースター・ビリー・グラハムやアブドーラ・ザ・ブッチャー、バロン・フォン・ラシク、シャスカ・ワトレーらと共闘する。1985年10月には新日本プロレスに初来日、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦した。以降も新日本プロレスの常連外国人となり、スティーブ・ウィリアムスとの抗争アングルなども組まれた〔『THE WRESTLER BEST 1000』P230(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 1987年11月、ミッドアトランティック地区にて同じくウォリアーズを模したキャラクターのザ・ウォーロードとコンビを組み、フェイク版ロード・ウォリアーズのパワーズ・オブ・ペイン(''The Powers of Pain'')を結成。リングネームもザ・バーバリアン(''The Barbarian'')と簡略化し、本家ウォリアーズとタッグ抗争を展開する。1988年2月12日にはプレイング・マネージャーのイワン・コロフを加えたトリオで、ダスティ・ローデス、ロード・ウォリアー・ホーク、ポール・エラリング(負傷したロード・ウォリアー・アニマルの代打で出場)を破り、NWA世界6人タッグ王座を獲得した。 1988年6月からはデモリッションのライバル・チームとして、ウォーロードと共にWWFに移籍。当初はベビーフェイス、後にヒールとなり、ミスター・フジをマネージャーに迎えてデモリッションと抗争を繰り広げた。1990年下期、ロード・ウォリアーズ(リージョン・オブ・ドゥーム)のWWF参戦に伴いウォーロードとのコンビを解散し、毛皮のコスチュームをまとった野人ギミックのシングルプレイヤーに転向。ボビー・ヒーナンのファミリーに加わり、旧友ハクとの新チームで活動した。1991年には、当時のWWFの日本での提携先だったSWSに3回来日している。 1992年よりマッドマックス・スタイルに戻ってWCWに移籍し、カクタス・ジャックやディック・スレーターと結託。6月25日にはスレーターと組んでファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ&ジミー・ガービン)からUSタッグ王座を奪取し、10月25日開催のPPV "Halloween Havoc" ではロン・シモンズのWCW世界ヘビー級王座に挑戦した。1993年には新日本プロレスに久々に参戦し、10月開幕の "Super Grade Tag League III" にもマサ斎藤と組んで出場している。1994年下期よりWWFに再登場、負傷で離脱したサムゥ(ワイルド・サモアン)に代わるファトゥの新パートナーとなり、ヘッドシュリンカーズ(''The Headshrinkers'')に加入した。 1996年にWCWに復帰し、以降1999年頃までセミレギュラーとして定着。ミング(ハク)とフェイシズ・オブ・フィアー(''The Faces of Fear'')を結成し、スティービー・レイ&ブッカー・Tのハーレム・ヒート、ケビン・ナッシュ&スコット・ホールのアウトサイダーズ、ブライアン・ノッブス&ジェリー・サッグスのナスティ・ボーイズなどと対戦したが、中堅のポジションからオーバーすることはできなかった。WCW離脱後はインディー団体を転戦し、2000年8月2日にオーストラリアのスーパースターズ・オブ・レスリングでカート・ヘニングからヘビー級王座を奪取。2004年8月31日にはIWAジャパンの10周年記念興行に来日、IWA世界ヘビー級王座の争奪トーナメントに出場し、1回戦でジョージ・ハインズを下したが、準決勝の2回戦でジム・ドゥガンに敗退した。 近年も各地のインディー団体への参戦を続けており、ウォーロードとパワーズ・オブ・ペインを再結成することもある。2008年2月にはテッド・デビアスをマネージャー役に、旧敵デモリッション・アックスとのタッグでバージニア州のACWに登場した。2014年7月12日にはジョージア州のNWAアトランタに、ウォーロードとのパワーズ・オブ・ペインで出場している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シオネ・ヴァイラヒ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 The Barbarian (wrestler) 」があります。 スポンサード リンク
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