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コンスタンチン・パヴロヴィチ(, 1779年4月27日 - 1831年6月27日)は、ロシアの皇族。ロシア大公、ツェサレーヴィチ(1799年 - 1831年)。パーヴェル1世の次男。1825年に帝位継承権を放棄し、これが契機となってデカブリストの蜂起が起きたことは非常に有名である。皇帝に即位することはなかったが、コンスタンチン1世と呼ばれることもある。 == 生涯 == 1779年4月27日、ツェサレーヴィチであったパーヴェル・ペトローヴィチ大公とその妃のヴュルテンベルク公女マリア・フョードロヴナとの間に次男として、ツァールスコエ・セローで生まれた。コンスタンチンはパーヴェルの子供たちの中では、容貌も性格も一番父によく似ていた。祖母のエカチェリーナ2世から、復活を夢見る東ローマ帝国の皇帝となることを期待されていたため、コンスタンティヌス大帝にちなんだ洗礼名を授けられた。 コンスタンチンは生まれてすぐエカチェリーナ2世のもとに引き取られた。エカチェリーナ2世は初孫のアレクサンドル・パヴロヴィチ(後のアレクサンドル1世)と同様、コンスタンチンの身心の教育に関しても自分がきめ細かく監督しようとした。しかし女帝はいつもの習慣から、自分が信頼を置く人物に孫の教育を一任した。ニコライ・イヴァノヴィチ・サルトゥイコフ伯爵がコンスタンチンの実質的な守役となったが、サルトゥイコフには皇子の養育は荷が勝ちすぎたようで、伯爵はよほどのことがなければコンスタンチンのすることに口出ししなかった。このため、やんちゃで落ち着きが無く、わがままな皇子の性格はそのままにされた。1783年から1795年まで女帝の孫息子たち2人の教育監督者を務めただけが、コンスタンチンの人格教育を行ったと言えるただ一人の人物であった。 エカチェリーナ2世は1796年2月26日、16歳のコンスタンチンをザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツの三女で14歳になるユリアーネ(アンナ・フョードロヴナ)と結婚させた。アンナにとってコンスタンチンとの結婚生活は苦痛でしかなく、1799年には夫と別居した。そして1801年にはついにコーブルクの実家に帰ってしまった。コンスタンチンは1814年になって妻を連れ戻そうとしたことがあったが、アンナの断固たる抵抗にあって引き下がるのを余儀なくされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンスタンチン・パヴロヴィチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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