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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
コンスタンティーヌ(/クサンティーナ、)はアルジェリア北東部に位置する同国3番目の規模の都市である。 内陸都市としてはアルジェリアで最大の規模を有する〔野沢「コンスタンチーヌ」『世界地名大事典』6巻、404-405頁〕 〔飯山「コンスタンティーヌ」『世界地名大事典』3、411頁〕。2008年当時の人口は448,374人。地中海の沿岸からおよそ80km南に位置する、コンスタンティーヌ県の県都である。都市の名前はローマ皇帝コンスタンティヌス1世に由来する〔。 コンスタンティーヌは東部アルジェリアの中心都市である。アルジェリアの商業の中心地で、アルジェリアの他都市やチュニジアなどがその主な市場である。また、コンスタンティーヌは伝統的なイスラームの学術都市、難攻不落の軍事都市の一面も持ち合わせている〔私市『アルジェリアを知るための62章』、315-317頁〕。 == 歴史 == 町のBou Zabaouine洞窟は新石器時代の遺跡として知られている〔日本アルジェリア協会『アルジェリアハンドブック』、119頁〕。紀元前3世紀までにフェニキア人によって建設されたキルタ(Cirta)がコンスタンティーヌの前身となっている〔。 キルタは紀元前3世紀頃に建国されたヌミディア王国の首都となり、紀元前203年にギリシアの入植民の助けを借りてミキプサ王によって都市が建設された。ヌミディア時代のキルタは穀倉地帯として繁栄し、アフリカでもっとも豊かな都市の一つに挙げられる〔ストラ『アルジェリアの歴史』、111-113頁〕。ミキプサの死後、ヌミディアはミキプサの養子のユグルタによって支配されたが、ユグルタとアドヘルバルがヌミディア王位の継承権をめぐって争いがおき、ユグルタがアドヘルバルを殺害すると、ローマ帝国の元老院はユグルタへの戦争をキルタで開始した(ユグルタ戦争)。結局ユグルタ側は敗れ、その後事実上ローマ帝国にキルタを含むヌミディア王国は支配されるようになった。 ユリウス・カエサルの時代にキルタはローマの植民市とされ、北アフリカに置かれたローマ帝国の4つの植民市の中で最も重要な都市となった〔。311年、マクセンティウスとドミティウス・アレキサンダーの間でアフリカ諸州をめぐって争いが起きた。キルタは戦争によって甚大な被害を受けたため、313年に新しく再建され、皇帝コンスタンティヌス1世の名をとって「コンスタンティナ・キルテンシウム」(Civitas Constantina Cirtensium)という名になった。 ヴァンダル族の支配は免れたが、7世紀にアラブ人に征服される〔。 その後、ピサやジェノヴァ、ヴェネツィアなどとの貿易が盛んになり、12世紀には再び繁栄するようになった。15世紀にはイベリア半島を追われたユダヤ人(スファラディーム)を多く受け入れ〔、アルジェリアの中でも特にユダヤ人の割合が多い都市となる〔。 チュニジアのハフス朝の支配を経て、1592年からオスマン帝国に編入される。アルジェリアに派遣されたデイが統治する3つのベイリク(州)のうち、コンスタンティーヌはベイ(知事)が統治する東のベイリクの首都に定められた。1770年から1792年にかけてコンスタンティーヌを統治したサラーフ・ベイはモスクやマドラサなどの多くの建造物を建て、町は繁栄を迎えた。 1830年にアルジェがフランス軍の攻撃を受けて陥落した後も、コンスタンティーヌの最後のベイであるアフマド・ベイは抵抗を続けた。1836年11月にアフマド・ベイはコンスタンティーヌを攻撃した7,000人のフランス兵を撃退する。翌1837年10月6日にコンスタンティーヌはフランス軍の包囲を受け、10月13日にフランス軍はコンスタンティーヌに突入し、町中の家屋や街路で戦闘が展開された〔。町がフランスに占領された後もアフマド・ベイはオーレス山地に逃れて抵抗を続けるが、1848年にフランスに降伏した〔。 フランスの植民地政策によって旧来のコンスタンティーヌの住民は周辺地域に追いやられ、新たにヨーロッパ風の市街地が建設された〔日本アルジェリア協会『アルジェリアハンドブック』、121頁〕。第二次世界大戦では、北アフリカの諸戦線の戦略上の拠点として連合軍に使用された。1934年8月5日、県原住民選出議員連盟会長のベンジュッルールがユダヤ人に暗殺されたという噂が流れ、ユダヤ人街に押し寄せた群衆によってポグロムが引き起こされる〔ストラ『アルジェリアの歴史』、128頁〕。暴動の結果22人のユダヤ人が殺害され、27人が重傷を負った一方でムスリム側からも21人の重傷者が出たが、軍隊は武器を置いて暴動に介入しなかった〔。 1943年にコンスタンティーヌを訪問したシャルル・ド・ゴールは、植民地再開発計画の必要性を唱えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンスタンティーヌ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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