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コン・レ ( リダイレクト:コン・レー ) : ウィキペディア日本語版 | コン・レー
コン・レー( / Kong Le, 1934年3月6日 - 2014年1月17日)はラオス王国の軍人、政治家。ラオス内戦中の1960年、軍事クーデターにより右派政権を打倒し、中立派プーマ政権の樹立に貢献した。その後は中立派軍司令官として右派軍および左派軍との戦闘を指揮。後に失脚し、フランスに亡命。 == 経歴 == コン・レーは1934年、フランス支配下のサワンナケート県パラン郡の農家に生まれた〔ラオス史研究の山田紀彦は、コンレーの出自をラオ・ルム(低地ラオ、タイ系民族)の一派、プータイ族と記している。山田(2002年)、第4節 用語 。〕〔ポーランドの外交官マレク・テー (Marek Thee) の説明として、ラオ・トゥン(山腹ラオ、非タイ系民族)とも伝えられている。木村(2007年)、83ページ。〕〔ラオス史研究のスチュアート=フォックスは、ラオ・ルムとラオ・トゥンの混血としている。スチュアート-フォックス(2010年)、173ページ。〕。第二次世界大戦中はサワンナケートで教育を受け、その時の教師の一人が後の左派パテート・ラーオ幹部、シンカポ・シコートチュンナマリーであった〔木村(2007年)、83ページ。〕。 ラオス独立後、王国政府と左派勢力が内戦を続ける中、1952年に王国軍へ入隊し、パラシュート部隊に配属〔山田(2002年)、第4節 用語 。〕。1954年には異例の若さで将校に任官し、北部において歩兵部隊の一部を率いてベトミンと闘った。1957年からはフィリピンに派遣され、アメリカ軍から対ゲリラ戦の訓練を受けている〔。 1958年に帰国すると、コン・レーは精鋭で実戦の経験豊かな第2パラシュート大隊の副隊長に任ぜられ〔、大尉に昇格した。しかし同年8月、左派との和平協定に基づく第1次プーマ連合政府が崩壊し、右派内閣が成立。これにより左派パテート・ラーオは排除・弾圧され、内戦が再燃することになった。ラオス人同士の戦闘を憂いたコン・レーは、同年シンカポと接触してクーデターを提案するが、シンカポからは自制を求められた〔。その代わりに、中立平和党の幹部ボン・スワンナウォンとを紹介され、その後ポンセーナーの政治指導を受けることになる〔。 1960年4月の総選挙では、あからさまな不正により右派が大勝し、6月に軍部右派プーミー・ノーサワン将軍が実質権力を握る内閣が成立した。これにより、左派との内戦が本格化すこととなり、8月のクーデターへと繋がった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コン・レー」の詳細全文を読む
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