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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレス()は、1904年からロンドンとコーンウォールのペンザンスを結んでいるイギリスの急行旅客列車である。グレート・ウェスタン鉄道が最初に運転を開始し、ロンドンのパディントン駅を午前遅くに出てペンザンス駅まで運行する列車にこの名前が付けられ、その後国有化されてイギリス国鉄となり、民営化されてファースト・グレート・ウェスタンとなっても、2回の世界大戦中に一時的に運転を中止したのみで、運転が続けられている。またペンザンスからロンドンまで午前遅くに出発して走る急行列車にも同じ名前が付けられている。その性能と宣伝により、コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレスはイギリスでもとても有名な列車となっており、その象徴的な地位に押し上げることになった1930年代におけるグレート・ウェスタン鉄道の宣伝でとくに名高い。 == 歴史 == パディントンとペンザンスの間の直通列車は1867年3月1日から運転開始し、この中には10時15分発のや11時45分発のフライング・ダッチマンなどの急行列車も含まれていたが、所要時間はなお9時間かそれ以上を要していた。 グレート・ウェスタン鉄道は、より停車駅の少ない新しい急行列車を計画し、1904年7月1日に運転を開始した。ロンドンを10時10分に出発し、ペンザンスには17時10分に到着するように設定されていた。列車は食堂車を含めて6両編成で、さらに1両がトゥルーロで切り離されて、支線の列車に連結されてファルマスまで行くようになっていた。他にはデヴォンのプリマス・ノース・ロード、ヘルストン支線向けにグウィニア・ロード、セント・アイヴス支線向けにセント・エスに停車した。復路の列車はペンザンスを10時に発車し、追加でデヴォンポートにも停車した。 の1904年8月号において、列車名を選ぶ公募が行われ、賞金として3ギニー(3.15ポンド)が提示された。1,286通の応募の中に「ザ・コーニッシュ・リヴィエラ・リミテッド」() と「ザ・リヴィエラ・エクスプレス」() という2通の応募があり、これらが組み合わされて「ザ・コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレス」となった。しかし鉄道関係者は単に「ザ・リミテッド」と呼ぶことが多かった。 最初の2年間は夏期のみしか運転されなかったが、3年目からは通年運転となった。1906年にが開通して距離が20.25マイル(約32.6キロメートル)短縮された〔''Service Timetables'', Great Western Railway, (October 1920).〕ことにより、ペンザンス着時刻を保ったままパディントンを20分遅く出発することができるようになった。同時に、新しい全長68フィート(約21メートル)のコンサーティナ型客車が用意された。また、ウェイマス、、、ニューキーといった休暇の目的地向けに、列車が走行中に客車を切り離していくことができるスリップ・コーチが追加され、ダートムーアの南側、デイントンやラッタリーの勾配を登るために補助機関車を連結するまではノンストップで走るようになった。第一次世界大戦の半ばまでには列車は14両編成にまで成長し、夏の土曜日には2列車に分けて走ることさえあったが、1917年1月に戦時経済上の理由で運転中止となった。 列車の運転は1919年夏に再開されたが、まだ毎時60マイル(約96 km/h)の包括的な速度制限が適用されており、戦前のダイヤに復帰するのは1921年秋を待たねばならなかった。1923年には新しい鋼製客車と、さらに重要な4073型蒸気機関車(キャッスル型)が導入された。キャッスル型は「イギリス最強の蒸気機関車」と宣伝された。これにより、補助機関車の連結のために停車する必要が無くプリマスまで走れるようになり、スリップ・コーチを使うことでキャッスル型の限界である310トンに列車の重量を抑えられるようになった。しかしキャッスル型の優位は、1926年に登場したサザン鉄道のが引張力で上回ったことからあまり長く続かず、特に西部方面への重い休日列車の牽引を想定して、6000型(キング型)が開発されることになった。キング型が1927年に投入されたことで、列車の重量が360トンに重くなってもなおプリマスまで4時間で到達することが可能となったが、機関車の重量が増加したためにコーンウォールでの使用は不可能となった。 1935年には9フィート7インチ(約2.9メートル)幅のセンテナリー型客車が導入されたが、第二次世界大戦までの間にはこれ以外にはあまり重要な変化はなかった。第二次世界大戦の勃発とともに、西部へ向かうすべての列車はブリストル経由に変更され、コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレスの出発時刻は14時35分に変更された。しかし10月にはまた10時30分に戻されて、エクセターが最初の停車駅となった。1941年夏には、誰もが夏の一時的な休暇を西部で過ごしていると思われるような状況となり、コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレスは5本の列車に分けて運行されるようになり、それぞれペンザンス、ペンザンス、ペイントン、キングスウィア、ニュートン・アボット行きとなった。皮肉なことに、コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレスは戦争期間中はずっと運転が続けられたが、1946年から1947年にかけての冬には石炭不足のために運転中止となり、翌年夏になって再開された。しかし、鉄道が国有化された後、1955年近代化計画が発表された1955年秋になるまで、戦前のダイヤには復帰しなかった。 1950年代末に牽引する機関車がディーゼル機関車に変更された。1964年にが導入されたことで、500トンの列車を牽いてトーントンに追加停車を行ってもなおプリマスまで4時間の所要時間を維持できるようになった。クラス52からさらにに置き換えられ、エアコン付のイギリス国鉄マーク2客車を牽引するようになる1977年までには、プリマスまでの所要時間がさらに短縮されて3時間35分となった。これらの車両は1981年秋にインターシティー125に置き換えられた。 イギリス国鉄の民営化後、ファースト・グレート・ウェスタンが運行している。なおインターシティー125を使っているが、過去25年を経て改良作業が進められている。既に、キング型がコーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレスを牽引していた31年間に到達しつつある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コーニッシュ・リヴィエラ・エクスプレス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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