|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ テン : [てん] 【名詞】 1. 10 2. ten 3. (P), (n) 10/ten
グディニャ(Gdynia, カシューブ語:Gdiniô、ドイツ語:グディンゲン、Gdingen、1939年から1945年まではゴーテンハーフェン、Gotenhafenと呼ばれた)はポーランドのポモージェ県に属する都市。古くから記録に登場する漁村であったが、新たに港湾が建設され大都市となったのはポーランド独立後の1920年代以降のことである。バルト海のグダニスク湾に面しており、ポーランドの主要な港湾の一つである。 伝統的にカシューブ人が多い地域に属している。グディニャは、南に隣接するスパの町ソポト、その南にある古い港湾都市グダニスク、および郊外の町などを合わせて「三連都市」(Trójmiasto)という人口100万人以上の規模の大都市圏を形成している。 == 歴史 == グディニャの名が最初に記録に現れるのは1253年のことで、ポメレリア人(カシューブ人)の漁村としてである。現在はグディニャの一部となっているオクシヴィエ(Oksywie、オクシヴィエ文化の発見された遺跡がある)は、Oxhöftという名前で1209年の記録に現れている。この地はバルト海のグダニスク湾一帯で最初にキリスト教の教会が建った場所でもある。1380年にはグディニャの村を所有していた領主がシトー会へと寄贈し、1382年から1772年までの間グディニャは、オリヴァ(Oliwa)にあったこの地方最大のシトー会修道院に属していた。 この地はポメレリア(ポメラニア東部)と同様の歴史をたどっている。古代にはオクシヴィエ文化があり、ゴート族や後にはスラヴ人が住みプルーセン人の影響もあったが、990年ごろから1308年まではポーランドの一部に、1309年にはドイツ騎士団に征服されその領地に、1466年から1772年まではポーランド王領プロシアの一部となっていた。1772年の第一次ポーランド分割でプロイセン王国に併合され、その後長らくプロイセン王国およびドイツ帝国の一部であった。 ドイツ帝国が成立した1870年にはグディンゲン/グディニャには1,200人ほどの住民がおりカシューブ人も多く、歴代町長の中にもカシューブ人がいた。この時期のグディンゲン/グディニャは後に言われるような「単なる貧しい漁村」ではなく、ゲストハウスやレストランやカフェがある観光地で、小さな商船用の桟橋もあった。1919年のヴェルサイユ条約で、西プロイセン地方に属するグディンゲン/グディニャは新たに誕生したポーランド共和国の一部となった。同時に、ヴィスワ川の河口に近い港湾都市ダンツィヒ(後のグダニスク)はポーランド領でもドイツ領でもない国際連盟の下にある「自由都市ダンツィヒ」となった。ダンツィヒ港に海運・物流を依存していたポーランドは、自由都市ダンツィヒの経済や外交に一定の権利を持っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「グディニャ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Gdynia 」があります。 スポンサード リンク
|