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ゴーディ・ハウ : ミニ英和和英辞書
ゴーディ・ハウ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ゴーディ・ハウ : ウィキペディア日本語版
ゴーディ・ハウ[ちょうおん]

ゴーディ・ハウGordon "Gordie" Howe、1928年3月31日 - )はカナダサスカチュワン州フローラル生れのプロ・アイスホッケー選手でミスター・ホッケー (Mr. Hockey) の愛称を持つ。NHL及びWHA両リーグに渡って長期間活躍し、右ウイングを務めた。3年間の待機期間を待たずしてホッケーの殿堂入りを果すとともに、オーダー・オブ・カナダ (Order of Canada) を受勲した。
== 選手としての経歴 ==
ハウは、1946年に18歳でアイスホッケーのプロ選手としてNHLにデビューを飾った。所属チームはデトロイト・レッドウィングス、ポジションは右ウイングであった。ハウはデビュー直後からその類稀な才能を発揮してポイントゲッターとしての地歩を固めた。また、肉体的にも強靭なものを持ち、過酷なアイスホッケー競技にあっては異例の50年に渡る選手生活を送り活躍を続けている。
スポーツ各界におけるアスリートの誰もが真似をできない偉業として、ゴーディ・ハウは20年間連続でゴール数上位5位以内の座に座り続けたことが挙げられる。また、ウェイン・グレツキーの登場を見るまでは常にNHLをリードし続け、チャンピオンシップにおける幾多の得点によりハウの支配力が証明されてきた。
ハウは所属のデトロイト・レッドウィングスを4度のスタンレー・カップ優勝に導いた。これらの優勝当時、右ウイングのハウ及び彼と組んだセンター、シッド・エイベル (Sid Abel) 、左ウイング、テッド・リンジー (Ted Lindsay) のラインは、その得点力の高さと自動車産業で有名なフランチャイズのミシガン州デトロイトに引っ掛けて「プロダクション・ライン」(、"The Production Line" 、生産ラインの意)と呼ばれた。レッドウィングスは1950年代から1960年代初頭を通じて、常に優勝争いにからむ有力チームであり続けた(その後、チームは1960年代後半にスランプに陥る。)
入団して25年後にハウは慢性的な手首の怪我によってNHLからの引退を余儀なくされ、一旦はレッドウィングスのフロントに入る。しかしながら、その1年後新設されたWHA (World Hockey Association) のヒューストン・アエロズ (Houston Aeros) から選手契約のオファーを受ける。レッドウィングスのフロントで何ら意義のある活躍の場を見出せないことに満足できないでいたハウは、選手としての返り咲きを果すために問題の手首の手術を決行、そして見事チームを連続優勝に導いた。1974年には、実に46歳にしてWHAの最優秀選手賞を獲得した。1977年には息子のマーティ・ハウ、マーク・ハウと共にニューイングランド・ホエーラーズに移籍。
1979年に WHA と NHL の合併が決まると、当時51歳のハウはニューイングランド改めハートフォード・ホエーラーズ(Hartford Whalers 、後のカロライナ・ハリケーンズ)の選手としてNHLに復帰、リーグ試合数80試合のすべてに出場した。1980年2月5日にジョー・ルイス・アリーナで行われたオールスターゲームにも選出され、最後に紹介されたハウは古巣デトロイトのファンから大歓声で迎えられた。
また、1997年にハウは、実に60年に渡ってプロホッケーでプレイを行うという金字塔を打ち立てた。このときハウは、 International Hockey League のデトロイト・バイパーズ (Detroit Vipers) と1試合のみの出場契約を締結し、1回の途中交替によって感動のリンク返り咲きを果した。
ハウの活躍した時代は、得点することが難しく、選手同士の当たりが激しい時代でもあったが、ポイント数1,850(801ゴール、1,049アシスト)はNHL史上でも歴代3位(2005年現在)にランクされる。また、NHLとWHAのレギュラーシーズンを通算してみると、975ゴールは歴代1位(2005年現在)である。なおウェイン・グレツキーはハウのことをその若かりし選手時代から崇拝しており、後に両者の親交は厚いものになるのであるが、またハウの打ちたてた数多くの得点記録などを塗り替えることになる。
ハウの引退時において、プレイオフを含めてNHL及びWHAを通算してプロホッケー選手としてハウが残した記録は、出場試合数2,421試合、ゴール数1,071、アシスト数1,518及びポイント数2,589など最高のものであった。その後、グレツキーはゴール数1,072、アシスト数2,297、ポイント3,369とハウの記録を更新したが、出場試合数は1,788試合とハウに及ぶことはなかった。また、この後もハウの出場試合数は誰も破ることのできない記録であると一般的に考えられている。マーク・メシエでさえ、その出場試合数1,756はハウのNHLのみの出場数にすら11試合及ばず、ましてやプロ通算2,421試合にははるかに及ばない。
ミスター・ホッケーと呼ばれ英語圏生まれのハウの付けた背番号9は、奇しくもフランス語圏の英雄モーリス・リシャールと同じ背番号であった。この両選手による相乗効果もあって、一般的に背番号9は、NHLにおいても特別な意味を持つ番号と信じる向きが多い。ウェイン・グレツキーが入団した時、すでにスーパースターの地位を確立していたハウに憧れ9番を望んだが、空番でなかったため99番を着用することとなったとされる。なお、ハウは当初は17番を着用していたのであるが、小さい番号を付けると遠征時の車両で良い寝台を得られると聞き背番号を変更したというエピソードが残されている。
弟のヴィック・ハウもNHLのニューヨーク・レンジャースで3シーズン33試合に出場した。ハウの妻 Colleen Joffa は、アメリカにおいて初のジュニアホッケーチームデトロイト・ジュニアレッドウイングスの創立者として知られる。また、息子のマーティ (Marty Howe) と マーク (Mark Howe) は、二人とも父親のハウのチーム・メイトとしてヒューストン・アエロズハートフォード・ホエーラーズでプレイしたことで知られる。
なお、ハウが新聞の見出しとなる場合には、しばしば英語の駄洒落で氏名のGordie HoweHoly cow(「なんてこったい」、「あれまー」位の意味)のそれぞれの単語を組み合わせて用いることもある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ゴーディ・ハウ」の詳細全文を読む




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