翻訳と辞書
Words near each other
・ サイイド・アブドゥッラー・ヌーリー
・ サイイド・アミール・アリ
・ サイイド・アル=マスーリ
・ サイイド・クトゥブ
・ サイイド・サイード
・ サイイド・マンスール・ナーディリー
・ サイイド・ムハンマド・アブドゥラー・ハッサン
・ サイイド・ムハンマド・グラーブズイ
・ サイイド・ムハンマド・ジャアファル
・ サイイド兄弟
サイイド朝
・ サイウオ科
・ サイェレット・13
・ サイェレット・マトカル
・ サイエンス
・ サイエンス サイトーク
・ サイエンス0
・ サイエンスQ
・ サイエンスZERO
・ サイエンスの幽霊


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

サイイド朝 : ミニ英和和英辞書
サイイド朝[さいいどちょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

サイイド朝 : ウィキペディア日本語版
サイイド朝[さいいどちょう]

サイイド朝(サイイドちょう、、Sayyid dynasty)とは、北インドの一部を4代37年にわたって支配した、デリー・スルターン朝の4番目のトルコ系イスラーム王朝(1414年 - 1451年)。首都はデリー。名称は、建国者のヒズル・ハーンが「サイイド」、すなわちムハンマドの子孫であると称したことに由来する〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.150-151〕。
==歴史==
1398年末、有能な統治者に恵まれず弱体化したトゥグルク朝は、ティムールの侵入により大混乱に陥り、無力化していた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。1405年、ティムールが遠征の途上、中央アジアのオトラルで亡くなると、ティムール帝国は内紛を起こし、それを制したのはティムールの4男・シャー・ルフであった。
パンジャーブ総督のヒズル・ハーンはシャー・ルフに従って、1413年には王家が断絶して大混乱していたトゥグルク朝に攻勢をかけ、1414年にはデリーを占領してトゥグルク朝を滅ぼした〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149〕。そして新たに建国したのが、サイイド朝である。
しかし、その支配はデリーの周辺のみの弱体な王朝であり、周りをジャウンプル・スルターン朝マールワー・スルターン朝メーワール王国に囲まれて、王権は不安定だった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151〕。
また、ヒズル・ハーンはティムールの代理人をもって任じ、スルターンを称することはなかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151〕。ヒズル・ハーンの治世では、トゥグルク朝の貨幣がそのまま鋳造されて使われ、ヒズル・ハーンの子ムバーラク・シャーの時代もシャー・ルフの代理とし貢物を送り、代わりに礼服、儀式用の日傘が送られた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151〕。
3代目のムハンマド・シャーは無能な人物で王朝は急速に衰退し、パンジャーブのローディー族の半自立傾向が目立ちはじめる〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151〕。
4代目のアラー・ウッディーン・アーラム・シャーのときに宰相のハミード・ハーンが権力を握ったが、1451年バフルール・ローディーによって投獄され、サイイド朝は滅亡した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152〕。
ここにローディー朝が成立することになったが、アーラム・シャーは1478年まで年金を受け取って生活した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
〕。 

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サイイド朝」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.