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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 侵攻 : [しんこう] 1. (n,vs) invasion
サウスジョージア侵攻(invasion of South Georgia)とは1982年3月19日から4月3日にかけてイギリス領サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島にアルゼンチン軍が侵攻、掌握した事件である。この侵攻事件と時を同じくしてフォークランド諸島進攻事件が起こり、イギリス側は事態解決に機動艦隊を派遣、フォークランド紛争が勃発した。 == 背景 == アルゼンチンは19世紀からフォークランド諸島の支配を巡りイギリスと争ってきた。フォークランド諸島より約1000km東に位置するサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島も自国領土であると主張して、アルゼンチン領南極などとともにティエラ・デル・フエゴ州に含まれるという立場を採ってきた。 サウスサンドウィッチ諸島のうち南にあるテューレ島では実効支配を示すため1955年に基地を設営(火山活動のため翌年放棄)。さらに1976年には同島を含む 南テューレを占領した。イギリスは南大西洋へ艦隊を派遣するなどアルゼンチンを牽制しつつ交渉による解決を模索したが、フォークランド紛争までは軍事力の行使を避けた。 1970年代、アルゼンチンでは軍事政権下、20年以上にも及ぶ政治の混乱が天文学的なインフレと失業を招き、牛肉など食料品の値上げにより国民生活を深刻な状況に陥れ、1980年代に入っていよいよ頂点に達しようとしていた。 1981年にアルゼンチン政権を引き継いだレオポルド・ガルチェリ(現役工兵中将でもあった)は、民衆の不満をそらすために、フォークランド諸島の領有権問題に目をつけ、フォークランド諸島領有権問題を煽ることで、国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとフォークランド諸島への本格的な軍事侵攻に乗り出し、サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島もアルゼンチン軍の標的とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サウスジョージア侵攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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