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サウスダコタ州()は、アメリカ合衆国の中西部にある州である。グレートプレーンズ(大平原)にあり、南西部はと呼ばれる標高の高い平原地帯である。州の北はノースダコタ州に、東側はミネソタ州とアイオワ州に、西側はモンタナ州とワイオミング州に、南側はネブラスカ州に接している。州の中央にはミズーリ川が南北に流れているので、その東側と西側には地理的にも社会的にもはっきりとした特徴があり、州民は「イーストリバー」「ウェストリバー」と呼んでいる〔Hasselstrom, pp. 2–4.〕。 州都はピア市であり、人口最大の都市は、ミネソタ州、アイオワ州との州境に近いスーフォールズ市である。「ダコタ」という名前はインディアン部族のダコタ族(スー族)の言葉「ダコタ(仲間)」に由来する。面積ではアメリカ合衆国50州の中で第17位だが、人口では第46位、人口密度も第46位と過疎である。19世紀後半にできたダコタ準州の南側半分であり、1889年11月2日に40番目の州に昇格した。 州内東側には州民の大半が住んでおり、その肥沃な土壌で様々な農作物が栽培されている。西側は牧畜業が盛んであり、その経済は観光業と防衛費に依存している。州南西部にはブラックヒルズと呼ばれる低木の松に覆われた山脈があり、スー族の聖地である。ここには4人の大統領の顔のモニュメントで有名な観光地ラシュモア山国立記念公園がある。他にもバッドランズ国立公園、クレイジー・ホース記念碑、ウインドケーブ国立公園、ジュエルケーブ国定記念物、カスター州立公園、また歴史ある町のデッドウッドなどが、訪れる人の多い観光地である。ウォール・ドラッグストアなど、民間主導で運営されている観光地・名所も少なくない。はっきりとした四季のある大陸性気候であり、雨量は東部で中程度、西部でやや少ない亜乾燥気候である。生態系は北アメリカ草原に典型的な様相を示している。 自然が豊富で多くの観光客が訪れる州という華やかな面がある一方、ゴールドラッシュ期にはインディアンと白人との激しい抗争が繰り返された州でもある。全米で最も経済的に貧しい地域がある州であり、現在でも、インディアン居留地の貧困は、サウスダコタ州が抱える大きな問題として残っている。 ==歴史== サウスダコタ州となった地域には少なくとも数千年前から人類が住んでいた。最初の住人は狩猟採集社会型のパレオ・インディアンであり、紀元前5000年頃に姿を消した〔Schell, p. 15.〕。西暦500年から800年頃、マウンドビルダーと呼ばれる半遊牧民が中部と東部に住んでいた。14世紀、ミズーリ川近くで数百人の男女子供が殺されるという、いわゆるクロウクリーク虐殺が起こった〔Deloria and Neal (eds.), p. 161.〕。1500年までに(あるいはリー族)がミズーリ川流域の多くに入っていた〔Schell, pp. 16–18.〕。この地域へのヨーロッパ人による接触は、1743年にフランス人のラヴェランドリー兄弟が探検したのが始まりだった。ラヴェランドリー探検隊は現在のピア市近くに銘板を埋めており、それにはこの地域がフランス領ルイジアナの一部であることが書かれていた〔Schell, pp. 28–29.〕。19世紀初期までにスー族がアリカラ族をほとんど排除し、地域を支配するようになっていた〔Schell, pp. 18–21.〕。 1803年、アメリカ合衆国はフランスのナポレオン・ボナパルトからルイジアナを買収した。その範囲には今日のサウスダコタ州の大半が含まれていた。時の大統領トーマス・ジェファーソンは「ルイス・クラーク探検隊」と呼ばれる部隊を編成させ、新しく獲得した地域を探検させた〔Thompson (ed.), pp. 56–57.〕。1817年、アメリカ人の毛皮交易基地が現在のフォートピア市に設立され、この地域へのアメリカ人の入植が続くようになった。1855年、アメリカ陸軍がピア砦を購入したが、翌年にはそこを放棄して、より便利な南のランドール砦に移った〔。この時期にアメリカ人やヨーロッパ人による開拓が急速に進行し、1858年にはヤンクトン・スー族が条約に調印して、現在の州東部の大半をアメリカ合衆国に割譲した〔Thompson (ed.), pp. 69–71.〕。 1856年、土地投機家達が現在のサウスダコタ州における最大都市であるスーフォールズを設立し〔Schell, pp. 72–73.〕、1859年にはヤンクトン市を設立した〔Schell, p. 72.〕。1861年、アメリカ合衆国政府がダコタ準州を設立した。これには現在の南北ダコタ州とモンタナ州およびワイオミング州の一部も含まれていた。地域の開拓はアメリカ合衆国東部からの人々と、ヨーロッパ西部と北部から移住してきた人々によって行われ〔Schell, pp 168–170.〕、特に1873年に東部からの鉄道がヤンクトンまで延びた後は急速に増加した〔Schell, p. 113.〕。1874年、ジョージ・アームストロング・カスターが軍隊を率いた遠征中に、ブラックヒルズで金が発見された〔Schell, p. 129.〕〔Schell, pp. 140–144.〕。坑夫や鉱山師がラコタ族に約束された土地に違法に侵入するようになった。 1868年のによって、サウスダコタ州西半分がグレートスー居留地としてスー族に認められていたという事実があったにも拘わらず、カスターの遠征が挙行された。スー族はブラックヒルズ内の鉱業権や土地を渡すことを拒み、アメリカ合衆国政府が坑夫や開拓者が地域に入るのを止められなかったので、戦争が起きた。最終的にはアメリカ陸軍がスー族を破り、グレートスー居留地は5つの居留地に分割され、その地域のラコタ族を収容することになった〔。1980年、アメリカ合衆国最高裁判所と連邦議会はブラックヒルズの違法な占拠についてラコタ族に賠償金を払うよう命じた。ラコタ族は賠償金の受け取りを拒み、土地の返還を求めたので、この訴訟は未解決である〔Thompson (ed.), p. 529.〕。ダコタ準州内の人口が増えたので、1889年11月2日、ベンジャミン・ハリソン大統領は地域をノースダコタとサウスダコタに分け、州として昇格させる声明書に署名した〔Schell, p. 222.〕〔Thompson (ed.), pp. 115–116.〕。ハリソン大統領は国務長官のジェイムズ・G・ブレインに、署名すべき2つの書類の順番を入れ替えて、どちらに最初に署名したか分からないように指示し、またその順序も記録しないようにしたので、誰もどちらが先に合衆国に加盟したか分かっていない。しかし、ノースダコタ州がアルファベット順ではサウスダコタ州の前に来るので、ノースダコタ州昇格の声明書が法令集では先に出版された。この日以来、アルファベット順に並べるのが慣例となり、サウスダコタ州は40番目の加盟州となっている。 1890年12月29日、パインリッジ・インディアン居留地でウンデッド・ニーの虐殺が起こった。これは通常アメリカ合衆国とラコタ・スー族の最後の武装闘争だとされているが、少なくとも146人のスー族が死に、その多くは女性や子供だった〔Schell, pp. 304–305.〕。アメリカ陸軍兵は31人が戦死した〔。 1930年代、経済と気象の条件が組み合わされてサウスダコタ州の経済を襲った。サウスダコタ州やその他平原の州では、雨が降らず、異常な高温が続いたことと、不適切な耕作法とがいわゆるダストボウルを生み出すことになった。肥沃な表土は大量の砂嵐に吹き飛ばされ、農作物は壊滅的な損害を受けた。このダストボウルに加えて、地元の銀行による差し押さえや、世界恐慌の影響が及んだために、多くの州民は土地を離れることを余儀なくされた。1930年から1940年の間に州人口は7%以上減少した。 1941年にアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参入し、州内の農産物や工業生産品が戦争需要に対応して増加したので、経済の安定が取り戻された〔Schell, pp. 317–320.〕。1944年、アメリカ合衆国議会で1944年洪水制御法の一部としてピック・スローン計画が承認され、ミズーリ川に6つの大型ダムが建設された。そのうち4つは少なくとも一部がサウスダコタ州内に入っている〔Schell, pp. 323–325.〕。このダムとその貯水池は、洪水制御、水力発電およびボートや釣りなどレクリエーション用途に使われるようになった〔。 最近数十年間でサウスダコタ州は農業一本から多様な経済を持つものに変化してきた。1960年代に州間高速道路体系ができてからは観光業が成長し、ブラックヒルズが観光地としての重要性を増した。金融産業も成長を始め、1981年、シティバンクはそのクレジットカード管理をニューヨーク市からスーフォールズ市に移した。その後幾つかの金融会社が追随している。サウスダコタ州は利子率の上限を無くしたことでは最初の州になった〔Hetland, Cara. ''Sioux Falls 25 years after Citibank's arrival.'' Publicradio.org Minnesota Public Radio. February 24, 2006. (accessed March 23, 2007)〕。2007年、リード市に近く、最近閉鎖されたホームステイク金鉱山の跡が新しい地下研究施設の場所に選定された。州全体の人口が増加し、近年の経済発展があったにも拘わらず、田園部ではここ50年間ほど人口が減少し、教育を受けた若者は州内のスーフォールズやラピッドシティなどの大都市、あるいは他州に流出するという問題を抱えてきた。農業は機械化と耕作地の統合が進み、小規模家族農場が少なくなってきたことで、田園を抱える町は経済衰退と人口減少の問題に直面している〔Thompson (ed.), pp. 542–549.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サウスダコタ州」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 South Dakota 」があります。 スポンサード リンク
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