|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
サバスデイポイントの戦い(サバスデイポイントのたたかい、英 Battle of Sabbath Day Point)は、1757年7月23日に、ジョージ湖沿岸のサバスデイポイントで起きた戦闘である(戦闘というよりは、待ち伏せと呼んだ方が正しい)。約450人のフランス軍とインディアン同盟兵とが、海兵隊のエンサン・ド・コルビエール指揮のもと、植民地民兵中心の、ジョン・パーカー率いる350人のイギリス軍に奇襲をかけた。フランス側は、相手の作戦を知っており、彼らがバトーで湖岸に近づくのを待ち伏せていたのである。この確定的な敗北で、イギリスの戦死者は350人中160人にものぼり、あとの兵も捕虜となった。フランス軍は、報告によれば、軽傷が1人だけだった。 ==最初の包囲と戦闘準備== 1757年3月、ジョージ湖畔のウィリアム・ヘンリー砦はフランス軍に4日間包囲された。しかしフランス軍は、満足な物資や砲兵の支援もなく、さらに、3月21日は周囲もよく見えないほどの吹雪で攻撃ができず、攻略は不可能となり、包囲戦は中止された。しかし、包囲自体は失敗に終わったものの、ジョージ湖岸に停泊していた300隻もの船や、小型の軍艦、製材所や別棟の多くの建物を破壊して行った〔Fowler, p. 114〕。 フランス軍の退却により、ジョージ・モンロの指揮下にあるイギリス軍は勝利を主張した。確かにフランス軍は砦こそ奪えなかったが、多くの船を破壊したことで、モンロは、フランスやインディアンの動向を探るための、偵察隊を出動させることが不可能になった。船を失ったこと、人員不足、そして「愚かで規則を守らない」兵たちは砦の外の巡回と偵察とで手一杯で、満足のいく諜報活動を行うことができず、モンロはかなり不安を感じていた〔Fowler, p. 118〕。 いっぽうで、フランス軍からの報酬であるブランデー、銃、弾薬、そして衣類にやる気を起こしたインディアンたちは、この年の春から夏にかけて、カリヨン砦(タイコンデロガ砦)から、南にあるウィリアム・ヘンリー砦へ突撃隊として赴き、砦の壁を乗り越えて、刃向かおうとする無謀なイギリス兵たちを拉致し、頭皮をはいだ。モンロは、フランス軍の情報をほしがっていたにもかかわらず、インディアンたちの襲撃に応じることもしなければ、補強部隊が来るまでに、フランスの動向に関する機密情報を得ることも殆どやらなかった。彼はまた、何カ月も前にフランス軍に壊された建物や船の再建にも、急ぐそぶりを見せなかった。6月、ニューヨーク、ニュージャージー、そしてニューハンプシャーの3植民地の民兵が、ダニエル・ウェッブが駐屯するエドワード砦から送られて来て、軍の補強が完成した。フランスの情報がほしくてたまらない上に、軍も補強されたため、モンロは行動を開始することにした〔Fowler, p. 119〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サバスデイポイントの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|