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サファヴィー建築(Safavid architecture)は、イスラーム国家サファヴィー朝で形成された建築である。オスマン建築とともに、近世のイスラーム建築の一角を担う。 アッバース1世のもと、サファヴィー建築は比較的短期間に開花し、初期の段階でモスクの形式を洗練させたが、その後は細部の技巧に執着する傾向を示し、現代のイスラーム建築にまで影響を与えるような新しい動きはほとんどなかった。 他のイスラーム諸国の影響は受けなかったが、サファヴィー朝以外のイスラーム建築はイランにほとんど残っておらず、サファヴィー朝の建築物の系統をたどることは難しい。 ==歴史== ===サファヴィー建築前期=== サファヴィー朝は、イスマーイール1世が白羊朝を破ってタブリーズを占拠し、架空の家系図を作り上げて国家を形成したことに始まる。しかし、初期の時代の関心はもっぱらシャイバーン朝とオスマン帝国の国土を侵略し、あるいは両帝国から国土を防衛することにあり、国政が安定しなかったこともあって、織物や陶器、金属細工などの芸術はタフマースブ1世のもとで最盛期を迎えるものの、建築の発展的な状況はアッバース1世の時代まで待たなければならなかった。 アッバース1世はサファヴィー朝中興の祖と呼んでもよいが、ようやくこの時代にサファヴィー建築は幕開けを迎えた。アッバース1世は、1598年にエスファハーンでペルシアの新年を祝うと、ここに新しい都を建設することを決定した。イスラームの新設都市としてはたいへん珍しいことに、エスファハーンは十分な遺構と歴史的資料が揃っているため、当時の街の状況をかなり正確に復元することができる。このため、サファヴィー朝前期の建築についての知識は、この街にあるものが全てであると言っても過言ではない。 世界遺産にも登録されているメイダーネ・ナクシェ・ジャハーン(世界の肖像の広場)は、今日では521m×159mもの大きさであるが、1505年頃に西方の一部はイスマーイール1世によってすでに整備されていたらしく、サマルカンドの庭園の名を採ってナクシュ・イ・ギャハンと呼ばれていた。アッバース1世はメイダーンを再建し、両面に店舗を備えたバザールを四辺に配置し、その内側に中庭に向けて開かれた店舗をもう一列設置した。中庭に向けられた店舗スペースは、広場中央のオープン・スペースから分離されており、広場中央は定期市、競技、公共事業などのために使われていた。 1611年から建設されはじめたマスジド・イ・シャーは、メイダーンの南側にある会衆モスクで、建築家アブール・カーシムによって設計された。メイダーンに面する入り口は1616年には完成しており、北側にあるため常に日陰となっているが、現在でも青く輝くタイル・モザイクが強烈な印象を与える。本体は1638年に至るまで完成しなかったが、ほぼ1000年にも渡ってイスラームで建設され続けた四イーワーン形式モスクの最高傑作と呼べるものである。入り口に入るとすぐに巨大なドームを頂く聖域が広がり、その両側には交差ヴォールトによって覆われる冬用モスクがある。さらにその外側には開放的な中庭を備える。 シェイフ・ルトゥフッラーのモスクは、碑文から建築家ムハンマド・レー・ブン・ウスタド・フサインによって建設されたことが知られ、1618年に完成したらしい。このモスクは皇帝の私的礼拝に使われたと推定されており、ミナレットがないことも、これを裏付けている。入り口はメイダーンに開かれた中庭に面しており、礼拝室を回り込むように配置された廊下を通って礼拝室に入る。キオスク型モスクの究極の姿とされるドーム内部はたいへん美しい。 マスジド・イ・シャーとシェイフ・ルトゥフッラーのモスクは、ともに彩色タイルによって覆われたドームを持つが、その美しさは量塊を感じさせないほどで、イスラーム美術の粋を感じさせる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サファヴィー建築」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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