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北島 三郎(きたじま さぶろう、1936年(昭和11年)10月4日 ‐ )は、日本の演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家。 『函館の女』に始まる「女」シリーズ、『兄弟仁義』などの「任侠」シリーズなど、数多くのヒット曲がある。一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれている。原 譲二(はら じょうじ)のペンネームでも知られ、自身の楽曲の作詞・作曲ばかりでなく、自身の舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ、他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を精力的に行っている。 作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役を務める。 == 来歴 == === デビューまで === 北海道上磯郡知内村(現:知内町)出身。北海道函館西高等学校に進学した。高校時代の北島は、海で溺れた小学生を救助したという逸話がある(この人命救助の件は当時の『函館新聞』にも掲載され、その記事が函館市の北島三郎記念館に飾られている)。高校在学中に函館で開催された『NHKのど自慢』に出場する。この時、鐘は2つだったが、司会の宮田輝から「良い声して学生さんですか?お上手でしたのにねえ…」と優しく声をかけられたことで、「歌やれば歌手の道あるかな?」と思うようになり、結局それが歌手への目覚めの第一歩になったという。 1954年、18歳で高校を卒業後、東京の親族を頼って上京し、当初は東京声専音楽学校(1989年、昭和音楽芸術学院に改称。2007年閉校)に入学。しかし歌謡曲志向であったため、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指す。この頃に北島が当時都内で下宿していたアパートの大家の娘であった雅子(後の北島音楽事務所社長→副会長)と結婚。1959年11月30日、挙式。北島がレコードデビューする約3年前の挙式だった。式に出席したのは両家あわせて21人だけだった。北島は定収がなく、夫人の両親から結婚を反対されたと後に語っている。 1960年、流しの収入は3曲100円だったが、ある日羽振りのいい客が1000円を出してくれた。礼を言い1曲歌うと「明日、新橋の○○って喫茶店で待っているから来なさい」と声をかけた。その相手は北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、この時、喫茶店で引き合わされたのが作曲家、船村徹だった。この時のことを振り返り北島は「こういうちょっとした出会いなんだけど、わずかな出会いが人生で物凄い出会いになってくる」と語っている〔。これを契機に船村門下となり、レッスンの日々となる。 1961年、ある日のレッスン前、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』だった。この年には既にレコーディングも行われ、その場で船村から紹介されたのが新栄プロダクションの社長、西川幸男だった〔 〕。また、この年にはギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』の“ぽん太”として漫才コンビでのステージも経験している。これは歌の師匠である船村がなかなかデビューのチャンスを得られない北島にステージ度胸をつけさせるため、自ら台本を書き、もう1人の弟子とコンビを組ませ、知り合いの興行師に頼みこんで仕込んだ事で、東北地方の1か月興業の前座芸人として機会を与えられたが3日ほどで「使い物にならない」と帰され、ギャラは一切もらえなかったという。ロカビリー全盛のこの頃、正統派の演歌・歌謡曲の新人はなかなか需要が無く、船村自身「あんなに(売り込みに)苦労した弟子は他にはいなかった。」と述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北島三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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