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ジローラモ・サヴォナローラ (, 1452年9月21日 - 1498年5月23日) は、フェラーラ生まれのドミニコ会修道士。フィレンツェで神権政治を行った。宗教改革の先駆と評価されることもある。 ==生涯== サヴォナローラは9月21日にフェラーラで生まれた。彼の祖父は著名な内科医兼博学者であった。祖父の跡を継ぐためにフェラーラ大学(en)に入学し、芸術の学位を取って医学校に進学する準備をするも、それを放棄して宗教的な詩文学に走った。その後、ドミニコ会に入信し、1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に転任する(後に修道院長となる)。説教壇から激烈な言葉でフィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家による実質的な独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴え、市民を感激させた。信奉者は次第に増え、メディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチも、死の間際(1492年)にサヴォナローラを招いて罪を告白したと言われている(捏造ともいわれる)。1494年、フランス軍が侵攻してくると、それを予言していたということで信望が高まる。メディチ家はフランスへの対応を誤ったことからフィレンツェを追放され、サヴォナローラが共和国の政治顧問となって政治への影響力を強める。これ以降、神権政治が行われることになった。 次第に教皇国をも批判し、1497年には教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)から破門される。贅沢品として工芸品や美術品をシニョリーア広場に集め焼却するという「虚栄の焼却」も行われ、市民生活は殺伐としたものになった。画家サンドロ・ボッティチェッリも彼の影響を受けて華美な絵を書くのを止めてしまったほどである。だがサヴォナローラの厳格な姿勢に対しては反対派の不満も高まっていった。1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして「火の試練」の挑戦を受けた。これは4月7日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが〔『ルネサンス・フィレンツェ統治論―説教と論文』〕、4月8日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。彼は激しい拷問を受けた。教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。 彼の最後の言葉は「わが主は、わがすべての罪のために死にたもうた。私はこの貧しき生命を喜んで彼に献ぐべきではないだろうか」であった〔尾形守『リバイバルの源流を辿る』〕。 遺骨はアルノ川に捨てられた。 のちに、フィレンツェでは共和制のシンボルとしてミケランジェロの代表作、ダビデ像が造られる(1504年)が、1512年にはハプスブルク家の軍事的支援を受けたメディチ家がフィレンツェに復帰することになる。こうした社会の混乱でフィレンツェ社会の活力は失われ、ルネサンスは終息に向かっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジロラモ・サヴォナローラ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Girolamo Savonarola 」があります。 スポンサード リンク
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