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サムドラグプタ : ミニ英和和英辞書
サムドラグプタ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


サムドラグプタ : ウィキペディア日本語版
サムドラグプタ

サムドラグプタ(Samudragupta、? - ?)は、かつてインドに存在していたグプタ朝の第2代君主(在位:335年頃〔佐藤「サムドラグプタ」『アジア歴史事典』4巻、61頁〕〔山崎「サムドラグプタ」『南アジアを知る事典』新版、315頁〕/350年頃〔グプタ「サムドラグプタ」『世界伝記大事典 世界編』4巻、401-402頁〕〔古井「グプタ朝の政治と社会」『南アジア史』1、164頁〕 - 375年頃)。ガンジス川中流域を拠点として北インドにグプタ朝の版図を拡大させ、経済・文化面でも繁栄を現出させた。
サムドラグプタはかつてマウルヤ朝アショーカ王により建てられたアラーハーバードの石柱にサンスクリットの碑文を追刻し、碑文には家系、即位の過程、在位中に実施した軍事遠征について記されている〔。簡潔なパーリ語で平和と正義を称えたアショーカ王の碑文に対して、サムドラグプタの碑文は彼が戦闘で収めた勝利を優雅なサンスクリットで称えている〔。碑文の内容は史料の裏付けを欠いた箇所もあり、そのまま全てを史実とすることは難しいが、4世紀当時の南アジアの政治情勢とグプタ朝の支配制度について投影されている〔古井「グプタ朝の政治と社会」『南アジア史』1、167頁〕。碑文はグプタ朝に仕える詩人ハリシェーナがサムドラグプタに捧げた頌徳文であり、文学面においても高い評価を受けている〔。
== 生涯 ==
グプタ朝の創始者であるチャンドラグプタ1世を父に、名家リッチャヴィ家の娘クマーラデーヴィーを母に持つ〔。アラーハーバード碑文にはチャンドラグプタ1世が多くの子の中からサムドラグプタを後継者に指名したことが記されており、このため治世の初期にサムドラグプタは他の兄弟の反乱に直面したと推測する意見も存在する〔古井「グプタ朝の政治と社会」『南アジア史』1、165頁〕。
サムドラグプタの治世は、北インドへの迅速な遠征とその成功によって始まる〔。サムドラグプタが即位した当時、グプタ朝はビハール北部とベンガル地方北西を支配しており、サムドラグプタはチャンドラグプタ1世の遺言に従ってヒンドゥー教の政治理想であるディグヴィジャヤ(世界征服)を開始する〔。サムドラグプタの軍事活動により、北インドのベンガル、マトゥラーエーランに至る領域がグプタ朝の支配領域に組み込まれた〔。
続いてサムドラグプタは南方への遠征に取り掛かった。ベンガル湾沿いに進出し、デカン高原東部を経てカーンチプラム(現在のタミル・ナードゥ州内に位置する)にまで達したと推測される〔古井「グプタ朝の政治と社会」『南アジア史』1、166頁〕。しかしながら、この南方遠征では、サムドラグプタの直接支配がうち立てられたわけではなかった。遠征後、捕縛した王を復位させて、グプタ朝の宗主国として間接支配が行われた〔古井「グプタ朝の政治と社会」『南アジア史』1、166頁〕。これにより、かつてのマウルヤ帝国がアショーカ王の死後まもなく分裂したが、グプタ帝国はサムドラグプタの死後もその支配を維持することができた。
サムドラグプタは「大王のなかの統王」や「最高の帝王」といった称号を用い、神格化された君主として振る舞った。また、365年頃にヒンドゥー教バラモン教)の大供犠であるアシュヴァメーダ(馬祠祭)を行った〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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