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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
サム・クロフォード(Samuel Earl Crawford, 1880年4月18日 - 1968年6月15日) は、1900年代 - 1910年代のアメリカ・メジャーリーグの元野球選手。ポジションは右翼手。ネブラスカ州ワフー生まれ。左投げ左打ち。愛称は"Wahoo Sam"(ワフー・サム)。タイ・カッブと並び、1900年代のデトロイト・タイガースの看板打者だった。通算三塁打数のMLB記録を持つ。 == 略歴 == 高校時代はスポーツに長け、フットボールでネブラスカ州の選手権を2度獲得したことがある。1898年にワフーに巡業で訪れた野球チームに帯同するようになり、翌1899年にカナディアン・リーグのチャタム・レッズと契約、プロ選手となった。同年ウェスタンリーグを経てシンシナティ・レッズに昇格し、9月にはデビューを果たす。1年目は31試合に出場し打率.307の成績を収めた。 レギュラーとなった1901年には16本塁打、104打点を打ち本塁打王となる。この16本の本塁打のうち実に12本がランニングホームランで、現在も1シーズンのランニングホームラン数のMLB記録となっている。レッズには4年在籍したが、1902年オフにクロフォードとの契約を廻ってアメリカンリーグのデトロイト・タイガースとレッズとが競合する事態になり、タイガースがレッズへの3,000ドルの補償金を支払ってクロフォードと契約した。 タイガース移籍後の1903年、打率.335とリーグ最多の25本の三塁打を放ち期待に応えた。その後タイガースは1905年にタイ・カッブを獲得、カッブが台頭した1907年から3年連続でアメリカンリーグを制した。クロフォードとカッブは良いライバル関係にあったのだが、二人ともワールドシリーズではその実力を発揮できず、3年連続で出場したワールドシリーズにいずれも敗退することになる。 1910年年に120打点を挙げて自身初の打点王を獲得、翌1911年には自身のシーズン最高打率.378を記録。1914年と1915年には、2年連続で打点王を獲得した。また三塁打数は1913年から1915年の3年続けてリーグ最多と、30代を過ぎてもその走力は衰えを見せなかった。前後するが、1913年のオフには、チャールズ・コミスキーを総監督とする「世界周遊野球チーム」に参加し、同年来日を果たしている。 しかし1916年になって、タイガースは若手のハリー・ハイルマンをレギュラーの外野手に起用する方針を打ち出し、出場機会は急激に減っていった。1917年シーズンを最後にタイガースを離れ、以後メジャーでプレーすることはなかった。タイガースを離れた後は、1921年までパシフィック・コーストリーグでプレーを続け、その後南カリフォルニア大学などでコーチを歴任した。1935年から1938年にはパシフィック・コーストリーグの審判をしていた。 1957年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。1968年、カリフォルニア州ハリウッドにて死去。同年シンシナティ・レッズは、彼を球団の殿堂入り選手とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サム・クロフォード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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