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サム・スティムボート : ミニ英和和英辞書
サム・スティムボート[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

サム・スティムボート : ウィキペディア日本語版
サム・スティムボート[ちょうおん]

サム・スティムボートSam Steamboat、本名:Samuel Mokuahi, Jr. 1934年5月4日 - 2006年5月2日)は、アメリカ合衆国プロレスラーハワイ州マウイ島出身〔。
先住ハワイアンベビーフェイスとして、地元のハワイやフロリダを主戦場に活躍した。
リッキー・スティムボートはサムの「甥」という触れ込みのもと、彼にあやかったリングネームデビューしたが、両者の間に血縁関係はない〔。
== 来歴 ==
ルー・テーズに見出され〔、テーズの一番弟子として〔1956年にハワイにてデビュー〔。ハワイの現地語で「汽船」(燃える島)を意味する本名の "Mokuahi" を英名に変えたサム・スティムボートSam Steamboat)をリングネームに〔、翌1957年からはアメリカ合衆国本土テキサスにも進出〔。以降、ハワイとアメリカ大陸を往復し、1961年1月25日にはディック・ハットンからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取した。
その後、デトロイトカナダトロントなどを経て、1964年よりフロリダに参戦。フェイスターンしていたエディ・グラハムのパートナーとなり、同年6月23日にNWAフロリダ・タッグ王座を獲得する。以降もグラハムとのコンビでジョージアノースカロライナ、テキサス、テネシーなど各地を転戦。テネシーでは1966年の初頭に、ヒロ・マツダ&カンジ・イノキの日本人コンビとNWA世界タッグ王座を争った。
1966年5月、日本プロレスにグラハムと共に初来日。6月18日に川崎球場にて、凱旋帰国したヒロ・マツダと吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した。翌1967年7月には、マツダがエースを務めていた国際プロレスの旗揚げ第2シリーズに単身で再来日。このときは手薄だった日本人陣営に加わり、マツダや豊登を援護している。8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争では、大阪府立体育館のメインイベントでマツダと組み、ビル・ドロモ&ロジャー・カービーから勝利を収めた。
グラハムとのコンビ解消後、1968年からはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区にてミスター・レスリングとのタッグチームなどで活動。1970年代に入ると再びハワイを主戦場に、1971年2月24日にカーティス・イヤウケア、9月29日にジン・キニスキー1972年9月27日にフレッド・ブラッシーを破り、ハワイ版のNWA北米ヘビー級王座を再三獲得した。
同王座は1972年11月25日にダスティ・ローデスに奪われるが、以降もハワイでの活動を続け、キャリア晩年の1977年9月28日、ジョン・トロスを破って4度目の戴冠を果たし、12月にキラー・トーア・カマタに敗れるまで王者として活躍した〔。
2001年5月2日アルツハイマー病に起因する合併症のため死去〔。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サム・スティムボート」の詳細全文を読む




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