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サム・ライス(Edgar Charles "Sam" Rice, 1890年2月20日 - 1974年10月13日) は、1910年代~1930年代に活躍したアメリカ・メジャーリーグの選手。主なポジションは右翼手。インディアナ州モロッコ生まれ。右投げ左打ち。ニックネームは"Man O'War"(マノウォー)。1920年代のワシントン・セネタース全盛期を支えた外野手。 == 経歴 == メジャーデビュー前にはインディアナやイリノイのマイナーリーグでプレーしていた。ライスは1912年に竜巻の被害で家族や兄弟を全てなくすという悲劇に見舞われたが、ライス自身は、後年になっても、自らはそのことを公表しなかった。その後彼はインディアナを離れ、一時期アメリカ海軍に所属、メキシコのベラクルスでの戦いに加わったこともあった。 1915年、バージニア州のピータースバーグ球団からワシントン・セネタースに移籍し、同年メジャーデビューを果たす。当初は投手を務めていたが、すぐに外野に転向。外野のレギュラーに定着したのは1919年以降で、その頃は足の速さを売り物にしていた。1920年は63盗塁を決めて盗塁王となる。 以後盗塁数は減ったものの、四球の少ない積極的なバッティングで多くの安打数を稼ぐようになる。1924年から1926年にかけて3年連続で年間200安打以上(うち2回はリーグ最多安打)を放ち、セネタースを2度のワールドシリーズ出場に導いた。特に1925年のワールドシリーズ第3戦で、彼は後に大きな物議をかもすプレーを見せる。4-3でセネタースがリードしていた8回裏の守備で、ライスは相手の打ったホームラン性の打球にフェンス際で飛びつく。捕球後、体がフェンスを乗り越えてしまったため、審判はしばらく彼が捕球したのかどうかを確認できなかった。しかしライスがフェンスから起き上がったとき、彼のグラブにはボールが収まっていた。この試合の後、実際に打球を捕ったのかどうかについて、彼は身内にすら口外しなかったという。真相を尋ねられたとき、彼は「金のためじゃない。ミステリーにしておいた方が楽しいだろう」(''"I don't need the money. The mystery is more fun."'')というコメントを残した。 セネタースには計19年間在籍したが、1933年の3度目のワールドシリーズ出場後に放出され、翌1934年にクリーブランド・インディアンスで現役を引退する。通算安打数は3000本にわずかに足らないが、本人はそのことを知らないままだった。 引退後、ライスはメリーランド州で養鶏場を経営していた。かつて捕虜収容所にいた数人の日本人移民を、そこで雇っていたことが話題になったこともあった。1963年、ベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出される。1974年にメリーランド州で死去。上記1925年のプレーの真相は、彼の死後に開けるよう遺言されていた手紙に書かれていた。その手紙にいわく「ボールを落とす暇なんてなかったよ」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サム・ライス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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