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菊井 徹平(きくい てっぺい、1978年12月13日 - )は、日本のプロボクサー。神奈川県小田原市出身。元日本スーパーフライ級王者。コーエイ工業小田原ボクシングジム所属選手としてプロデビュー、2000年より花形ボクシングジム所属。2009年8月よりリングネームをサラリーマン 徹平と改めた。基本に忠実なオーソドックスなスタイルのボクサーである。 == 来歴 == 小学6年生の時にコーエイ工業小田原に入門。花形ジムでは星野敬太郎の弟弟子であった(世界王者時代のスパーリングパートナーを務めたこともある)と共に、星野が料理長を務めていた上大岡のとんかつ店でも星野の部下だった。ただし現在はいずれも退職している。 1997年4月13日、ライトフライ級でコーエイ工業小田原所属でプロデビュー。4R判定で勝利した。 1998年9月28日、東日本ライトフライ級新人王決定戦準決勝で、大和田智士(北澤)に4R判定で敗れ7連勝でストップ〔大和田は東日本ライトフライ級新人王を獲得し、引退後にさんまのSUPERからくりTVの「からくりみんなの!かえうた」コーナーに出演した際にそのことを語った。〕。 1998年12月3日、フライ級に階級を上げ濱口健一郎(ビクトリー)と戦うも6RTKOで敗れ、初の連敗およびKO負け。 2002年7月29日、2000年に花形ジムに移籍し後のOPBF東洋太平洋ライトフライ級王者升田貴久とスーパーフライ級へ階級を上げ戦い10R判定で勝利した。 2002年12月10日、後のWBCフライ級王者内藤大助と戦い10R判定負けで連敗。 2003年4月29日、ジャラットセーン・シンマナサック(タイ)と階級を上げバンタム級で戦い3RKOで勝利。 2003年11月4日、階級をスーパーフライ級に戻し河野公平と戦うも、8R判定で敗れた。 その後原口清一(草加有沢)とフライ級、新田俊明(大橋)とスーパーフライ級、河野公平とバンタム級で戦うなどし5連勝。単身渡米しマック・クリハラの指導を受けた。 2006年4月10日、当初は小縣新(松田)が出場予定であったが網膜剥離で引退のため、名城信男が返上し空位の日本スーパーフライ級王座決定戦に出場。相澤国之を10R判定で破りデビュー9年目にして初のタイトルを獲得した。 2006年8月14日、有永政幸との初防衛戦でも10回判定で勝利し防衛に成功。 2007年2月12日、河野公平との防衛戦。1Rからダウンを奪われる苦しい展開になり10R判定で敗れ、失冠。 2007年7月13日、王者のホームタウンであるメキシコでクリスチャン・ミハレスの持つWBC世界スーパーフライ級王座に挑戦するが何も出来ず、10回レフェリーストップによりTKO負けを喫した。オープンスコアリングシステムにより公開された8ラウンドまでのスコアもミハレスのフルマークであった。 2007年11月23日、階級を上げ、日本バンタム級王者三谷将之に挑戦も、10R判定負けでタイトル奪取ならず。 2009年4月7日、石本康隆(帝拳)とのバンタム級8回戦に2-1の判定勝利を収めて再起を果たした。 2009年8月13日、渡辺才一(船橋ドラゴン)とのバンタム級8回戦では6Rにダウンを奪い、3-0の判定勝利を収めた〔「サラリーマン徹平」初勝利 日刊スポーツ 2009年8月14日閲覧〕。このプロ通算30戦目よりリングネームをサラリーマン徹平と改め、試合後には日本バンタム級12位に復帰したが、同年12月28日には日本バンタム級11位として同フライ級5位の吉田拳畤(ワタナベ)とスーパーフライ級8回戦を行い、0-3の判定負けを喫した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菊井徹平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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