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サラーミシュ(アラビア語: سلامش / Solāmish, الملك العادل بدر الدين سلامش بن الملك الظاهر بيبرس al-Malik al-‘Ādil Badr al-Dīn Salāmish b. al-Malik al-Ẓāhir Baybars 1272年 - 1291年)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1279年)。略してアーディル・サラーミシュ الملك العادل سلامش al-Malik al-‘Ādil Salāmish とも呼ぶ。またサラーミシュの部分はスラーミシュ Sulāmish とも言う。第5代スルターン・アッ=ザーヒル・バイバルスの子で、第6代スルターン・バラカの弟にあたる〔大原『エジプト マムルーク王朝』、61-63頁〕。 1279年にマムルーク朝の将軍たちによってバラカが廃位された後、当時7歳のサラーミシュがスルターンに擁立された〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』5巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1976年12月)、103頁〕。政府の有力者であった将軍カラーウーンがサラーミシュの後見人となり、政務・軍事を取り仕切り、公衆礼拝で読み上げられるにはサラーミシュの名の次にカラーウーンの名が入れられた〔〔。 カラーウーンの下でバイバルス家を支持する将軍たちは排除され、カラーウーンの支持者たちが起用された〔〔。1279年11月27日にサラーミシュは廃位され〔、カラーウーンがマムルーク朝のスルターンに即位した。 サラーミシュは廃位された後、カラクに移された〔。1280年にダマスカス総督ソンコル(サンカル)がカラーウーンに対して反乱を起こした時、サラーミシュも反乱に加わった〔。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サラーミシュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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