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アフマド・サンジャル(احمد سنجر Aḥmad Sanjar、معزّ الدنيا والدين أبو الحارث أحمد سنجر بن ملكشاه بن الپ ارسلان بن چغريبك Mu'izz al-Dunyā wa al-Dīn Abū al-Ḥārith Aḥmad Sanjar b. Malik-Shāh b. Alp Arslān b. Chaghrī-Bak: 1086年 - 1157年5月8日)は、セルジューク朝の第8代スルターン(在位:1118年4月 - 1157年5月)。アッバース朝カリフからから授けられた尊号は、السلطان معزّ الدنيا والدين أبو الحارث أحمد سنجر برهان امير المؤمنين al-Sulṭān Mu'izz al-Dunyā wa al-Dīn Abū al-Ḥārith Aḥmad Sanjar Burhān Amīr al-Mu'minīn。 単にスルターン・サンジャル سلطان سنجر Sulṭān Sanjar とも呼ばれる。また、『集史』などの後代の資料では「諸スルターンのスルターン」(سلطان السلاطين Sulṭān al-Salāṭīn)などの尊称でも呼ばれている。 大セルジューク朝の統一的なスルターンとして実質最後の君主で、イラン東部ホラーサーン地方を領有、特にニーシャープールを根拠地としたため、イラン東部はサンジャルの治世で繁栄した。しかし、サンジャル以降はイラクやイラン高原でセルジューク王族がスルターン位を巡って各地で分裂状態となった。マリク・シャーの死後内紛で弱体化した大セルジューク朝を一時再興した英主であるが、治世後半と晩年の挫折によって同王朝の衰退は決定的となってしまった。 == 生涯 == === 即位まで === 父は第3代のマリク・シャーで五男。生母はトルコ系の側室。異母兄に第5代スルターンのバルキヤールク。異母弟に第4代スルターンのマフムード1世。同母兄に第7代スルターンのムハンマド・タパル。子は無し〔継嗣が無かったため、大セルジューク朝は事実上崩壊。セルジューク朝のスルターン位は兄のムハンマド・タパルの子孫に継承、争奪されることになった〕。 1092年の父の死後、スルターン位をめぐる内紛が起こると長兄のバルキヤールクに味方し、1097年にホラーサーンの支配権を与えられた。1100年より異母兄のバルキヤールクと同母兄のムハンマド・タパルが争うと、同母兄弟としてムハンマド・タパルに味方してバルキヤールクと敵対する。1101年〔1102年説もある〕には内紛に乗じてホラーサーンに攻めてきたカラハン朝のジブラーイール・アルスラーン・ハンを撃退してセルジューク朝の東方を死守し、1104年1月にバルキヤールクとムハンマド・タパルが和約するとゴルガーン、ホラーサーンの領有を認められた。その後、バルキヤールクとマリク・シャー2世の父子が相次いで死去したため、ムハンマド・タパルが跡を継いでサンジャルはその補佐としてイラン東部の支配権を与えられた。 ガズナ朝では1115年にが没した後に後継者争いが続いていたが、これに介入して首都のガズナを征服し、1117年2月にはを傀儡君主として即位させた。これは父の偉業に勝る功績であった(領土的には変わらないが、ガズナ朝を実質的に服属させたことが大きい)〔西アジア史2巻、P112〕。 1118年4月に同母兄のムハンマド・タパルが亡くなると、イラク領(イラク・セルジューク朝)は長男のマフムード2世(在位1118年 - 1131年)が継いだが、地方政権の宗主権を有する大スルターン位はサンジャルが継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アフマド・サンジャル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ahmad Sanjar 」があります。 スポンサード リンク
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