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サン・スタジオ はロックンロールのパイオニア的存在であるサム・フィリップスが、1950年1月3日のテネシー州メンフィス、ユニオン・アヴェニュー703にオープンした録音スタジオである。元々の名称は「メンフィス・レコーディング・サービス」で、サン・レコード・レーベルと同じ建物で営業していた。1951年に最初のロックンロール・シングルと評されるジャッキー・ブレンストン&デルタ・キャッツの「ロケット88」がレコーディングされた。1950年代前半にはハウリン・ウルフや、ジュニア・パーカー、リトル・ミルトン、B.B.キング、ジェイムズ・コットン、ルーファス・トーマス、ロスコー・ゴードンなどのブルースやR&Bのアーティストもレコーディングでこのスタジオを使用している。 1950年代後半には無名アーティストのデモのレコーディングを含むロックンロールやカントリー・ミュージック、ロカビリーのアーティストのほか、ジョニー・キャッシュ、エルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、ロイ・オービソン、チャーリー・フェザース、レイ・ハリス、ウォーレン・スミス、チャーリー・リッチなどがサン・レコードと契約を交わした。 サム・フィリップスは1959年に、上記ユニオン・アヴェニューのスタジオに取って代わる、より大きなスタジオ「サムC.フィリップス・レコーディング・スタジオ」(「フィリップス・レコーディング」の名称で有名)をオープンした。サムがホリデイ・イン・ホテルに投資をしてからは、ケモンズ・ウィルソンの依頼でホリデイ・イン・レコードのレコーディングも1963年から手がけるようになった。しかし、サム・フィリップスが1969年にシェルビー・シングルトンにレーベルを売却以降、1985年9月に行われたチップス・モーマンプロデュースの『クラス・オブ・'55 』のレコーディング・セッションまでの間、スタジオではレコーディングやレーベル関連の活動はなくなった。 1987年にサン・レコード・レーベルとメンフィス・レコーディング・サービスが入っていた元々の建物が、ゲイリー・ハーディーの手によって「サン・スタジオ」の名で再オープンし、U2やデフ・レパード、ボニー・レイット、リンゴ・スターなど多くの著名アーティストを引きつけた。 == フィリップス・レコード == 1950年1月、ラジオ局WRECのエンジニアであったサム・フィリップスが長年の友人マリオン・カイスカーをアシスタントとしてユニオン通り706番地にメンフィス・レコーディング・サービスを開業した〔Victor, pp. 399〕。フィリップスは若い頃から自身のレコード会社を所有することが夢であり、これが実現してとても喜んでいた。しかし軌道に乗せるのは容易なことではなかった。初動費用のため、フィリップスは会議、結婚式、合唱、葬式のためにレコーディングを行なった。彼はまた門戸を開放し、小額で誰でもレコーディングできるようにした。フィリップスのスタジオのスローガンは「何でも、どこでも、いつでも録音する」ことだった〔。6月、フィリップスと友人で地元のDJであるドゥーイ・フィリップス(親戚ではない)が自身のレコード会社フィリップス・レコードを立ち上げた〔Guralnick/Jorgensen, pp. 8〕。この会社の目的は、どこでレコーディングしたらいいのかわからない南部の黒人アーティストのレコーディングを行なうことであった。しかしヒットに恵まれず、ジョー・ヒル・ルイスの『''Boogie in the Park'' 』が400枚弱売れたのみであった〔Worth/Tamerius, pp. 153〕。 フィリップス・レコード倒産後、フィリップスはチェス・レコードやモダン・レコードなど他のレコード会社と取引を始め、デモ・テープを彼らに渡し、アーティストのためにマスター・テープをレコーディングした〔。この頃、フィリップスは最初のロックンロールと考えられているジャッキー・ブレンストンの『''Rocket 88'' 』をレコーディングした〔。何人かの伝記作家はこれをフィリップスの独創的創造性により比類のないサウンドの曲を生み出したとしたが、レコーディングで使用されたアンプが壊れていたために曖昧なサウンドになっただけだとする者もいる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン・スタジオ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sun Studio 」があります。 スポンサード リンク
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