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サンダカン死の行進 : ミニ英和和英辞書
サンダカン死の行進[さんだかんしのこうしん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [し]
  1. (n,n-suf) death 2. decease 
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 
行進 : [こうしん]
  1. (n,vs) march 2. parade 

サンダカン死の行進 : ウィキペディア日本語版
サンダカン死の行進[さんだかんしのこうしん]

サンダカン死の行進(サンダカンしのこうしん)は、1945年太平洋戦争大東亜戦争)中に大日本帝国が設置したマレーシアサンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリアイギリス軍兵士捕虜に対する捕虜虐待疑惑および「死の行進」と言われる行為である。これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる〔上東 2003〕。日本兵もまたこの移動により数百名が死亡している〔上に、生き残ったオーストラリア軍の元捕虜は、「行軍はきわめて辛かったが、捕虜への扱いは日本軍将兵と同一であった」と証言している〔。
== 概要 ==
1942年ボルネオ島北東に、空港建設を進める為にボルネオ捕虜収容所の分所として設置されたサンダカン捕虜収容所(所長:星島進大尉)には、1943年秋の時点で、オーストラリア兵1800人、イギリス兵700人、計約2000人(2500人という説もある〔田中 1993 〕)が収容されていた。
当初は、サンダカン収容所やボルネオ島の各収容所における捕虜の扱いは、人道的であった〔田中 1993 〕。捕虜は飛行場建設に使役されるなどし、また労働には賃金も支払われていた〔田中 1993 〕。売店の運営も許され、監視も緩やかだった〔田中 1993 〕。こうした扱いには、敗戦後に自殺したボルネオ捕虜収容所の最高責任者・菅辰次大佐の影響があったとされる〔田中 1993 〕。
しかし、捕虜の逃亡や、ライオネル・マシューズ中尉が地元住民と協力して反乱を計画した「サンダカン事件」が発生し、監視が厳重になる。なおオーストラリア軍では、逃亡の試みを捕虜の義務としていた〔田中 1993 〕。これは「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を持つ日本軍とは相容れないものであった。
その後、戦局の悪化によるさらなる厳罰化、南方軍司令部からの命令による食糧の配給の削減(当初一人一日550~700gの米と400~600gの野菜が支給されていたが、1945年1月には米200~300gに削減。しかし実際には米100gとわずかな野菜しか支給されなかったという)、医薬品不足などにより待遇は悪化。過酷な使役に加え、伝染病、栄養失調が蔓延。病死により1944年末には既に計1600人になっていたとされる。
殺害されたオーストラリア兵の一人にポール・キーティング第24代オーストラリア首相のおじがいたと報道されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サンダカン死の行進」の詳細全文を読む




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