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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
サンドン・ストール(Sandon Stolle, 1970年7月13日 - )は、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州シドニー市出身の男子プロテニス選手。フルネームは ''Sandon Frederick Stolle'' (サンドン・フレデリック・ストール)という。当地の往年の名選手フレッド・ストールの息子で、ダブルスのスペシャリストとして活動し、1998年の全米オープン男子ダブルスでシリル・スーク(チェコ)とペアを組んで優勝した。4大大会男子ダブルスでは、他に3度の準優勝がある。自己最高ランキングはシングルス50位、ダブルス2位。ATPツアーでシングルスの優勝はなかったが(準優勝1度)、ダブルスで22勝を挙げた。 サンドンは6歳の時から、父親のフレッドにテニスを習い始めた。テレビ解説者になった父親は、息子に「お前が大きくなったら、テレビでお前の試合の解説をしたいと思う」と口癖のように話していたという。サンドンはアメリカ・テキサス州フォートワースにあるテキサスクリスチャン大学で、2年間マーケティングとビジネスを専攻した後、1991年からプロテニス選手になった。1991年ウィンブルドンで、サンドンは大会初出場から2回戦に進出し、センター・コートでジョン・マッケンローと対戦した。父親のフレッドがこの試合のテレビ解説を担当し、ストール親子はここで夢を実現させた。1992年10月、台湾・台北市開催大会のダブルスでジョン・フィッツジェラルドとペアを組み、男子ツアーでダブルス初優勝を果たす。1993年1月の「NSWオープン」男子ダブルスでは、同じ年のジェイソン・ストルテンバーグと組んで2勝目を挙げた。間もなく、サンドンはダブルスの分野で躍進を始める。 1994年にストールは男子ツアーでダブルス3勝を挙げたが、3月末に日本・大阪大会でマルティン・ダム(チェコ)と組んだ優勝もあった。1994年後半から1995年にかけて、彼はアレックス・オブライエン(アメリカ)と組んで大半のトーナメントに出場した。1995年全米オープンで、ストールとオブライエンは初めて4大大会の男子ダブルス決勝に進出する。この決勝戦では「ウッディーズ」の愛称で知られるマーク・ウッドフォード&トッド・ウッドブリッジ組(ともにオーストラリア)に 3-6, 3-6 のストレートで敗れ、準優勝に終わった。ストールとオブライエンは、同年10月中旬の「セイコー・スーパー・テニス」にも出場し、準決勝でパトリック・マッケンロー(アメリカ)&ヤコブ・ラセク(スイス)組に敗れたが、このトーナメントはスポンサー撤退のため1995年の第18回大会を最後に開催中止となった。 1996年6月、ストールはイギリス・ノッティンガム大会(ウィンブルドン選手権の前哨戦の1つ)でシングルス決勝戦に進出したが、ヤン・シーメリンク(オランダ)に 3-6, 6-7 で敗れ、初優勝を逃した。彼のツアー経歴を通じて、これが唯一のシングルス決勝戦進出となる。彼の4大大会シングルス成績は、全豪オープン・全仏オープン・全米オープンは2回戦止まりだったが、ウィンブルドンで1992年・1996年・1997年の3度3回戦進出があり、芝生コートのウィンブルドンとはシングルスでも相性が良かった。 1997年から1998年の2年間、ストールは大半のトーナメントでシリル・スーク(チェコ)とペアを組んだ。スークの家族も名門のテニス一家で、彼の母親ベラ・スコバは1962年ウィンブルドン女子シングルス準優勝者になった名選手であり、姉のヘレナ・スコバも女子ツアーのトップ選手である。ストールとスークの“親子2代選手ペア”は、1998年全米オープンの男子ダブルスで初優勝を飾った。ストールにとっては、1995年以来3年ぶり2度目の全米ダブルス決勝戦だった。2人はダニエル・ネスター(カナダ)&マーク・ノールズ(バハマ)組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収めた。サンドンの父親フレッド・ストールは、全米選手権(当時の名称、1968年から「全米オープン」に変更)で1966年の男子シングルス優勝、1965年・1966年・1969年の3度男子ダブルス優勝がある。全米オープンの男子ダブルスで、ストール家は親子2代で優勝を飾った。 その後、ストールは1999年にウェイン・ブラック(ジンバブエ)、2000年はポール・ハーフース(オランダ)や、オーストラリアの後輩選手レイトン・ヒューイットなどとペアを組んだ。1999年ウィンブルドン2回戦でゴラン・イワニセビッチに敗れた試合を最後に、ストールはシングルスから撤退し、以後の活動をダブルスのみに絞った。2000年はハーフースとのコンビで好成績が多く、全仏オープンとウィンブルドンの2大会連続で男子ダブルス決勝に進出したが、両大会とも同じオーストラリアの「ウッディーズ」に連敗して準優勝になった。全仏オープンとウィンブルドンでは、サンドンは親子2代優勝の夢を果たせなかった。2001年3月5日付で、サンドン・ストールはATPツアーでダブルスランキング「2位」に入り、この年にツアーで年間5勝を記録した。2002年10月、オーストリア・ウィーン大会でジョシュア・イーグル(同じオーストラリアの選手)と組み、決勝でチェコペアのイリ・ノバク&ラデク・ステパネク組を 6-4, 6-3 で破った勝利が、ストールの現役最後の優勝になった(22勝目)。2003年1月、全豪オープンの男子ダブルス1回戦敗退を最後に32歳で現役を引退。引退後はテニスコーチとして活動し、2007年9月から「オーストラリア・スポーツ研究所」のテニスコーチに指名された。 == 4大大会ダブルス成績 == * 全仏オープン 男子ダブルス準優勝1度:2000年 * ウィンブルドン 男子ダブルス準優勝1度:2000年 * 全米オープン 男子ダブルス:1勝(1998年)/同部門準優勝1度:1995年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サンドン・ストール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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