|
サンマルコス砦(サンマルコスとりで、)は合衆国本土における最古の石造要塞である〔プエルトリコ(米本土外)のサンファンにあるは、より古い〕。 (聖マーク要塞(Fort St. Mark)、マリオン要塞(Fort Marion)に改名されていた時代がある。後述。本稿内でこれらの名称で言及することがある) フロリダ州セントオーガスティン〔訳注: スペイン統治時代はサン・アグスティン(San Agustín)〕市のの西海岸に位置する。 〔 建設はフロリダがまだスペイン帝国の一部だった1672年 に始まった。〔1672年はスペイン人提督によってセントオーガスティン市が創設された107年後に当たる。〕 1763年パリ条約の結果、大英帝国がフロリダの統治権を得て以来、セントオーガスティンが英国領東フロリダの首都になった。その時、要塞は聖マーク要塞(Fort St. Mark)に改名された。 しかし1783年のヴェルサイユ条約(独立戦争の講和)によってフロリダはスペインに返還されたので英国支配は20年しか続かなかった。1819年スペインはアダムズ=オニス条約に調印した。その中では1821年にフロリダを合衆国に割譲することが定められていた。その結果、要塞はアメリカ陸軍の基地に指定されマリオン要塞(Fort Marion)に改名された。〔この改名は独立戦争の英雄フランシス・マリオンの栄誉を称えるために行われた。〕1942年、によってオリジナル名「サンマルコス砦」に戻された。要塞は1924年、ナショナル・モニュメントに指定され、1933年には251年続いた軍による所有も解除された。その後、敷地の内8.3ヘクタール部分は国立公園局に引継がれた。 サンマルコス砦は2度の攻囲戦を経験した:最初は1702年にカロライナ植民地総督に率いられたイギリス植民地軍によって、2度目は1740年ジョージア植民地総督ジェイムズ・オグルソープによって。要塞の所有者は4政府の間で、すべて平和裏に6回変わった。4政府とはスペイン帝国、大英帝国、アメリカ連合国(南部連合)、アメリカ合衆国である(スペインと合衆国がそれぞれ2度づつ)。 1821年から始まる合衆国の支配下で要塞はセミノールを筆頭とする多様な先住民部族のメンバーを投獄するための軍刑務所として利用された。 ==スペイン統治第1期== ===建設=== セントオーガスティンのヨーロッパ人の街は1565年、スペイン国王のために提督でありコンキスタドール(征服を目的とする探検者)でもあったによってSeloyと呼ばれた先住民の村があった場所に建設された。 続く100年以上にわたり、スペイン人は防衛のため町の異なる場所に9つの木造砦を建設した。要塞の必要性は1586年フランシス・ドレークに率いられた20隻の艦隊による攻撃を受けたことで認識されるようになった。1668年イギリスの私略船(privateer: 国家公認の海賊)船長の破壊的攻撃の結果、マリアナ・デ・アウストリア(スペイン王妃、摂政)は市を防衛するための石造要塞の建設を承認した。要塞はスペイン人技術者 イグナシオ・ダサ(Ignacio Daza) によって設計され、建設は総督によって命じられた。 1671年ゲーラの後任の管理のもとで作業は進められたが、 最初の石積みが始まったのは1672年になってからだった。 サンマルコス砦は石造の星形要塞で、石材は'(スペイン語で「小さな貝」)と呼ばれた太古の貝が寄り集まった一種の石灰岩が用いられた。要塞建設の強制労働者は先住民に加えてキューバのハバナから連れてこられた。コキーナはマタンザス湾対岸、の「王の採石場(King's Quarry)」から切り出され、〔今日ので砦からマタンザス湾の対岸〕船で建設現場まで運ばれた。建設は1672年10月2日に始まり、23年続いて1695年に完成した。 要塞は〔訳注: sally port は要塞、刑務所など入退場に一定の制限を伴う施設の出入り口。数は少なく、サイズは小さい。戦時には完全に閉ざし得る〕を守る〔訳注: 要塞本体の前に置かれた一種の出丸。三角堡、半月堡などと訳される〕(三角堡)を伴った4つの堡塁を持ち、それぞれサンペドロ(南西)、サンアグスティン(南東)、サンカルロス(北東)、サンパブロ(北西)と名付けられていた(丸括弧内は方角)。陸側2正面には大規模な〔訳注: glacis は本来、敵を滑り落とすことを主目的としたスロープ状の要塞施設。土塁の場合もあれば石造の場合もある。〕が構築されていた。それはいかなる攻撃者にも要塞の大砲に向かって上向きに攻めかかることを強いるもので、要塞側からすれば下り斜面上の複数の目標を非常に効率的に射撃可能にするものだった。要塞のすぐ外側を堀が取り囲んでいた。堀は満潮時、水深1フィートまでマタンザス湾からの海水を引込むことができた。取水は敵の攻撃に先立って防潮堤に設けられた防潮扉から行なわれた。 城壁には多くの銃眼(大砲用)が設けられた。銃眼は様々な口径の大砲を配備するために要塞の屋上に沿って、また堡塁の内部にも施された。要塞守備兵のマスケット銃を配備するために歩兵用銃眼も(terreplein)〔訳注: 城壁上の平坦な通路部分〕レベルより下側の壁に穿たれた。 余談であるが後年の1837年に20人のセミノールの囚人達が脱獄(1837年当時は軍刑務所)したのはこの銃眼からだった。(節、合衆国統治第1期参照) (スペイン語で「小さな貝」)と呼ばれた太古の貝が寄り集まった一種の石灰岩が用いられた。要塞建設の強制労働者は先住民に加えてキューバのハバナから連れてこられた。コキーナはマタンザス湾対岸、の「王の採石場(King's Quarry)」から切り出され、〔今日ので砦からマタンザス湾の対岸〕船で建設現場まで運ばれた。建設は1672年10月2日に始まり、23年続いて1695年に完成した。 要塞は〔訳注: sally port は要塞、刑務所など入退場に一定の制限を伴う施設の出入り口。数は少なく、サイズは小さい。戦時には完全に閉ざし得る〕を守る〔訳注: 要塞本体の前に置かれた一種の出丸。三角堡、半月堡などと訳される〕(三角堡)を伴った4つの堡塁を持ち、それぞれサンペドロ(南西)、サンアグスティン(南東)、サンカルロス(北東)、サンパブロ(北西)と名付けられていた(丸括弧内は方角)。陸側2正面には大規模な〔訳注: glacis は本来、敵を滑り落とすことを主目的としたスロープ状の要塞施設。土塁の場合もあれば石造の場合もある。〕が構築されていた。それはいかなる攻撃者にも要塞の大砲に向かって上向きに攻めかかることを強いるもので、要塞側からすれば下り斜面上の複数の目標を非常に効率的に射撃可能にするものだった。要塞のすぐ外側を堀が取り囲んでいた。堀は満潮時、水深1フィートまでマタンザス湾からの海水を引込むことができた。取水は敵の攻撃に先立って防潮堤に設けられた防潮扉から行なわれた。 城壁には多くの銃眼(大砲用)が設けられた。銃眼は様々な口径の大砲を配備するために要塞の屋上に沿って、また堡塁の内部にも施された。要塞守備兵のマスケット銃を配備するために歩兵用銃眼も(terreplein)〔訳注: 城壁上の平坦な通路部分〕レベルより下側の壁に穿たれた。 余談であるが後年の1837年に20人のセミノールの囚人達が脱獄(1837年当時は軍刑務所)したのはこの銃眼からだった。(節、合衆国統治第1期参照) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サンマルコス砦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|