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サン・ファン・バウティスタ号 : ミニ英和和英辞書
サン・ファン・バウティスタ号[さんふぁんばうてぃすたごう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ごう]
  1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name 

サン・ファン・バウティスタ号 : ウィキペディア日本語版
サン・ファン・バウティスタ号[さんふぁんばうてぃすたごう]

サン・ファン・バウティスタ号(〔 ン・フン・バウティースタ〕〔 ン・ホワーン・バウティースタ〕)は、仙台藩初代藩主・伊達政宗江戸時代初頭に同藩陸奥国領内で建造したガレオン船。仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した、約500トン級で最初の日本製西洋型軍船である。
船名は「洗礼者・聖ヨハネ」の意で、元は「伊達丸」と呼ばれていたとの説もある。
支倉常長慶長遣欧使節は、仙台とローマとの往復のうち太平洋横断において同船を使用した。
== 概要 ==
慶長19年(1614年)、徳川家康の許可、すなわち“外交権”を得た伊達政宗が、仙台藩士支倉常長を外交使節に任命し、支倉一行がスペインとの貿易交渉のため太平洋を横断。その際に乗船した巨大帆船がサン・ファン・バウティスタ号である。スペイン風ガレオン船南蛮船)の様式を取っている。伊達政宗が使節を送った目的として、スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとの説もある〔大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。 政宗がスペインや大久保長安と結んで倒幕を図っていたという説は明治時代から存在したが(箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年)、これには批判もある(小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁)。〕。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍秀忠付きの船手頭向井忠勝から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある〔鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下〕。

伊達政宗はこの慶長遣欧使節において、その正使にはビスカイノ提督ではなく、政宗と親しいフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを任命した。ルイス・ソテロ、支倉常長、ビスカイノ提督らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、「日本初の対ヨーロッパ外交交渉」を行う旅に出た。
支倉らが目指したのは、スペイン帝国の中枢を成す、スペイン王国のフェリペ3世ポルトガル王兼任)である。当時スペインはフェリペ3世の父、フェリペ2世の時代に最盛期を終えた段階にあったが、依然としてスペイン帝国は「世界最大の植民地帝国」であった。
支倉常長とルイス・ソテロは、スペインの首都、マドリードの王宮でフェリペ3世と謁見した。しかし、この時期に日本国内では、徳川家康がキリスト教徒の大弾圧を行っていた。この情報がスペイン側に伝わり、支倉一行は窮地に立たされる。支倉一行は劣勢を挽回するために、ローマ教皇との謁見を計画した。
支倉一行はローマで、名誉ある「ローマ入市式」を行うなどの大歓迎を受けた。支倉常長はローマ市民権を与えられ、さらに貴族に叙された。支倉らはローマ教皇、パウロ5世と謁見し、教皇にスペインとの外交交渉の助力を頼んだ。
ローマ教皇の支持を得た支倉一行は再びスペインのマドリードを訪れ、フェリペ3世と外交交渉を行った。しかし、結果的にこの外交交渉は失敗に終わった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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