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サン・マルクフ諸島沖の海戦(サン・マルクフしょとうおきのかいせん、Battle of the Îles Saint-Marcouf)は、フランス革命戦争中の1798年5月に、ノルマンディー沿岸のコタンタン半島近くの、沖で行われた海戦である。1795年、この島にイギリスの駐屯隊が置かれ、北フランスの沖を航行するイギリス海軍軍艦への、再補給基地として機能していた。フランスは、島からこの駐屯隊を追い出すため、また同時に、計画されていたイギリス侵攻に向けて開発していた兵器と戦略とを試すために、1798年5月7日、50隻以上の上陸用舟艇を用い、何千人もの部隊を投入して、陸海共同の襲撃を島の南部に仕掛けた。かなりのイギリス海軍の部隊がこの海域にいたにもかかわらず、風の強さと潮の高さとで戦闘に参加できず、フランス軍との戦闘は、わずか500人規模の駐屯隊にゆだねられた。 数の上ではまさっていたにも関わらず、フランスの攻撃は悲惨なものだった。サン・マルクフ諸島の砲台の下の開放水域で、上陸用舟艇が攻撃され、舟艇のうち何隻かは乗員もろとも沈んだため、1000人近い兵が溺死した。砲台からの砲撃と海兵隊は、フランス兵の上陸を一人たりとも許さず、退却する艦隊は、北の方の島からの標的となって、さらに多くの損失を与えた。イギリスの死傷者は無視していいほどの人数だった。この作戦の失敗により、フランスが総力を挙げてイギリス侵攻をした場合の、予想しうる結果が示されたのだが、フランスの脅威はなおも残り、イギリス海軍は、コタンタンの複数の港に投錨していた上陸用舟艇に対する厳重な海上封鎖を開始した。この戦闘のひと月後、イギリスはこの戦略によって、ノルマンディー沿岸を通過したフリゲート艦とコルベット艦を妨害して完勝し、この戦闘に次いでフランスに勝利するという結果に終わった。 ==歴史的背景== フランス革命戦争の間中、イギリスの軍艦はフランス沿岸を巡回して、フランスの海上交通を妨害し、かつ破壊して、フランスの港への海上封鎖を行った。1795年、著名なイギリス海軍士官であるシドニー・スミス艦長は、再補給地をフランス沿岸の沖合に作ることができれば、自国の艦の航行時間を延長できることを知った。この目標のために、スミスは、ノルマンディーのコタンタン半島の沖合にある、3.5マイル(6.5キロ)の無人島である、サン・マルクフ諸島を占領した〔Woodman, p. 102〕。スミスはここに兵舎と砲台を築き、500人の水兵と海兵隊を駐留させた。その兵たちには、いわゆる傷病兵と呼ばれる、艦上で任務につけない者たちの比率が大きかった〔James (1827), pp.113-7.〕。このサン・マルクフ諸島には常にイギリス本国からの食糧が補給され、ここを訪れる艦が袋に入った土を持ってくるため、野菜の自給が発達した。スミスはこれらの島を数隻の砲艦で援護した。この砲艦とは、平底船を改造したに、そして、それからの浮き砲台であるだった。このサンドフライは、スミスがサン・マルクフ諸島の防御目的で作ったものだった。バジャーの艦長であるチャールズ・パップス・プライス海尉がここの指揮官となった。プライスは何度も昇進を見送られており、サン・マルクフ諸島では多くの時間を、ポーツマスから連れてきた娼婦と共に過ごした〔Woodman (2001), p. 103.〕。 1796年、イタリアでフランスがオーストリアに勝利し、以来フランス国内では、イギリスとの直接対決を求める圧力が大きくなって行った。フランス北部に展開されていた陸軍アルメ・ダングルテルの指揮官は当初ナポレオン・ボナパルトであったが、後にに委任された。ボナパルトも、その後指揮官となったキルメーヌもイギリス侵攻の準備をしており、アントウェルペン出身のムスケイン艦長は海軍の監督者で、部隊を輸送して英仏海峡を横切るのに適した、上陸用舟艇の艦隊を開発するようにとの指示を受けていた〔。フランス政府はスウェーデンの軍艦設計者であるに、侵攻用の舟艇を発注し、1797年にはチャプマン設計の舟艇がフランス北部沿岸で、ムスケインの監督の下建築されていた。この舟艇は、フランス兵には「バトー・ア・ラ・ムスケイン」(ムスケイン式船舶)として知られていた〔Gardiner, p. 105〕。 1798年4月、ムスケインはサン・マルクフ諸島への攻撃のため、上陸用舟艇部隊を準備するよう命令を受けた。この作戦は、イギリスの駐屯隊を根絶して、フランスの襲撃基地として再建すると同時に、陸海共同作戦においての上陸用舟艇の実効性を試すものでもあり、また、イギリス海軍の注目を英仏海峡に惹きつけることで、トゥーロンで、ボナパルトが行っているエジプトへの侵攻作戦の準備から目をそらす狙いもあった〔。1798年4月7日、ムスケインは、ポワン将軍の指揮の下、33隻の上陸用舟艇を率いてル・アーヴルを出港したが、4月8日になって、行く手を艦長のフリゲート艦ダイアモンドと 、艦長のに遮られているのに気が付いた。16時にこの2隻は、フランスの舟艇部隊をオルヌ川河口に追い詰め、砲撃を開始した。しかしダイアモンドはその後まもなく座礁した。日が落ちてからダイアモンドの乗員は救出されたが、どちらの側も相手に大きな損傷を与えることはできなかった〔Clowes (1900), pp.340-3.〕。 4月9日、フランスの小艦隊はオルヌ川を離れて、の港に投錨することができた。しかし艦長の4等艦がそこに到着し、ムスケインを説得して、オルヌ川河口の、もっと防御の固い投錨地に戻るように言った〔。ムスケインは東の方に戻ったため、彼の小艦隊は再びダイアモンドとヒドラの砲火を受けた。これで受けた損害の修理が終わるまで、フランスの小艦隊は今度はの砲台の下に逃げ込んだ。しかし、それから2週間の間に状況は変わった。シェルブールのに、ムスケインの窮状が知らされ、ラクロスから40隻の舟艇と武装した漁船で構成された援軍が送られてきた〔Gardiner, p. 106〕。4月の終わり、ムスケインは沖合で、イギリス軍の妨害を受けずに逃げるという好機に恵まれ、サン・マルクフ諸島の西にあるサン=ヴァースト=ラ=ウーグまで航行した。そこでムスケインは、彼らを追って西へやって来たイギリス戦隊に、邪魔されずに島に襲撃を掛けるための風向きと潮時を待った。〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン・マルクフ諸島沖の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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