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サン・ヴィターレ聖堂()は、イタリアのラヴェンナにあるビザンティン建築・初期キリスト教建築の代表的な聖堂(教会堂)であり、カトリック教会のバシリカ。6世紀前半に建設された。ラヴェンナでは非常に著名な聖堂であるが、司教座聖堂ではなく、聖ウィタリスの聖遺物を信仰するためのマルティリウム(殉教者記念礼拝堂)である。八角形の集中式平面というかなり特殊な平面構成を持ち、9世紀の歴史家アグネルスは、他のいかなるイタリアの教会建築とも類似しないと述べている。 ラヴェンナは、6世紀以降東ローマ帝国のイタリア統治の拠点として総督府が置かれ、繁栄を謳歌したが、8世紀初頭には東ローマ帝国から分離・衰退した。このため東ローマ帝国での聖像破壊運動の影響を受けることはなく、サン・ヴィターレの内陣部には初期ビザンティン美術の美しいモザイク画が残る。 近接して、ガッラ・プラキディア廟堂が建つ。周辺の建造物と共に世界遺産に登録されている。 ==歴史== サン・ヴィターレ聖堂の建設は、395年にアウグスタ・メディオラヌムの司教アンブロシウスによってボノニア(現ボローニャ)で発見された聖ウィタリスの聖遺物が、5世紀頃にラヴェンナに移されたことによって始まる〔J.ラウデン『岩波 世界の美術 初期キリスト教美術・ビザンティン美術』p134。〕。最初の教会堂は、現聖堂の西側部分に建設された十字型平面の建物であったことが発掘によって明らかになっているが、教会と言うよりは小さな霊廟に近いものだった。6世紀初頭には、聖ウィタリスはミラノの著名な殉教者、聖ゲルウァシウスと聖プロタシウスの父とする説が流布したが、それまで聖ウィタリスは著名な殉教者ではなく、その崇敬は重要なものではなかったので、なぜその霊廟が今日にまで残る壮麗な教会堂に再建されたのかは謎である。しかし、その幾分かは、政治的なライバル関係にあった都市、メディオラヌムに対する競争心からと考えられている〔J.ラウデン『岩波 世界の美術 初期キリスト教美術・ビザンティン美術』p134-p135。〕。 今日の聖堂建設は、司教エクレシウスの在職期間である521年から532年のある時期に起工されたらしいが、1階に司教ウルシキヌス(在位534年-536年)と司教ウィクトル(在位538年-545年)のモノグラムが刻まれた柱頭が存在することから、実際の工事は534年以降に始まった可能性も指摘されている。エクレシウスの在位中に工事が始まったとすれば、当時、ラヴェンナは東ゴート王国の首都であり、聖堂はテオドリックの娘であるアマラスンタによる摂政時代に着工されたことになるが、東ローマ帝国の再征服後も建設は進められ、546年から547年の間に司教マクシミアヌスによって献堂された〔R.クライトハイマー『Early Christian and Byzantine Architecture』p232。建設の開始について、R.クラウトハイマーは540年頃としているが、C.マンゴーはエクレシウス時代に起工、ウルシキヌス、ウィクトル時代に工事が進捗したとしている。C.マンゴー『図説世界建築史5ビザンティン建築』p79。〕。碑文から、このプロジェクトに資金を提供した東方の銀行家(アルジェンタリウス)のユリアヌスなる人物が知られている。彼は、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂の建設にも出資しているが、その身分は全く不明で、研究者の憶測を呼んでいる〔C.マンゴー『図説世界建築史5ビザンティン建築』p79。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン・ヴィターレ聖堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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