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サン=ドマング(Saint-Domingue)は1697年から1804年までの間、カリブ海のイスパニョーラ島の西三分の一を占めていたフランスの植民地である。砂糖とコーヒー貿易でフランス植民地の中でも最も利益を上げていた。今日のハイチ共和国にあたる。 == フランス領サン=ドマング植民地の成立 == サン=ドマング(Saint-Domingue)は、スペインがこの島の名前としていたサント・ドミンゴ(Santo Domingo、フランス語に直訳すればサン=ドミニク Saint-Dominique かサン=ディマンシュ Saint-Dimanche となるだろう)がフランス語になったものである。スペインはかつてイスパニョーラ島全土を支配しサント・ドミンゴと呼び、先住民や黒人奴隷を酷使して金鉱などを開発していたが、より豊かな金鉱・銀鉱が南アメリカやメキシコに発見された1520年代以降関心が薄れつつあった。海賊の襲撃が相次ぐため、1606年スペイン王フェリペ3世はイスパニョーラ島の植民者に対し、島の東の拠点都市サントドミンゴ周辺に移転するよう命令を出した。島の北や西には、イングランドやフランス、オランダなどの海賊が代わって拠点を置くようになった。 未開であった島の西北部では、フランス人やイングランド人の海賊たちが1625年に沖合の島トルトゥーガ島(トルチュ島)に初の拠点を置き、スペイン船などを襲いながら海賊同士の交易を行い野獣を狩って生活した。スペイン軍はしばしばトルトゥーガ島を掃討したが、海賊たちが獣や新鮮な水を求めて戻ってくることを止められなかった。1659年、フランス王ルイ14世はトルトゥーガ島を公式に植民地とし、新設されたが1664年に植民地経営を引き継ぎ、公式にイスパニョーラ島本土の西部の領有を宣言した。1670年には島北部に本土初の入植地カプ=フランセ(Cap-Français、現在のカパイシャン Cap-Haïtien)を築いた。衰退しつつあったスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で正式に島の西側三分の一がフランス領となった。フランスは新植民地に「サン=ドマング」と名づけた。その首都は1770年に、カプ=フランセから島西部のゴナーブ湾に面したポルトープランスに移っている。 東側はひきつづきスペインのサントドミンゴ植民地であり、現在では「ドミニカ共和国」として独立している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン=ドマング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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