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サヴォア十字軍 : ミニ英和和英辞書
サヴォア十字軍[ぐん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とお]
  1. (num) 10 2. ten 
十字 : [じゅうじ]
  1. (adj-na,n) cross 2. crossed 3. cruciform 
十字軍 : [じゅうじぐん]
 【名詞】 1. Crusades 2. Crusaders
: [じ, あざな]
 【名詞】 1. character 2. hand-writing 
: [ぐん]
  1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops 

サヴォア十字軍 ( リダイレクト:サヴォイア十字軍 ) : ウィキペディア日本語版
サヴォイア十字軍[さう゛ぉいあじゅうじぐん]
サヴォイア十字軍は、に先立つ幾つかの計画を、1366年から1367年にかけて実現したものである。この十字軍東欧オスマン帝国に対するものであり、ローマ教皇ウルバヌス6世 が発案してサヴォイア伯が指揮を執った。本来はハンガリー王国東ローマ帝国と共闘して行うはずであったが、十字軍は攻撃の対象を第二次ブルガリア帝国に変えた。東ローマ帝国に譲渡されるべき同地での戦果はわずかなものであった。また、ガリポリ付近のオスマン帝国に対する戦果もわずかであった。
オスマンに比べてブルガリアにはあまり多大な注意を払っていなかったことから、歴史家のは「この遠征は十字軍と同類のものではなくて突飛な行動に近い」と論じている〔Iorga, ''Philippe de Mézières et la croisade au XIVe siècle'' (Paris, 1896), 336–37: “Ce n'était pas même une croisade ... cette expédition, qui ressembla beaucoup à une équipée”, quoted in Setton, 300.〕。その一方でによれば、十字軍によるガリポリ占領は「キリスト教徒 によるヨーロッパを守るための闘争において最初に達成された成功であり、それと同時に14世紀全体を通してトルコに対する最後の偉大な勝利である」〔Halecki, ''Un Empereur de Byzance à Rome'' (Warsaw, 1930), quoted in Setton, 300.〕。
==準備==

===宣誓===

1363年3月31日聖金曜日アヴィニョン教皇庁において、フランスジャン2世善良王キプロス国王は聖地へ赴くという十字軍の誓いを立て、ローマ教皇ウルバヌス5世から誓いの印として自身の衣服に縫い込むための十字の印 (signum crucis) を授かった。これがサヴォイア十字軍の始まりであるが、ジャン2世は個人的に自らの誓いを敢行せず、ピエール1世は結局のところはサヴォイア伯の遠征に加わることはなかった〔Setton, 285.〕。後者は自らの十字軍の宣誓を立てなかった。また、 ウルバヌス5世以前の1364年1月19日まで頃に地方のマグナートによる会議がアヴィニョンで開かれており、による襲撃に対する同盟 (colligatio) が形成されていた。このことが、サヴォイア伯のにを授けた確実な理由であり、アメデーオ6世は自身が初期に創設して消滅したであろうに代わる聖アヌンツィアータ騎士団を創設した〔〔Cox, 179–81.〕。聖アヌンツィアータ騎士団の本来の団員はアメデーオ6世の家臣や関係者が充てられており、恐らくは騎士団員全員がアメデーオ6世の十字軍に追随する誓いを立てた。ただし、そのうちの2人は健康上の理由により東方へ行くことは出来なかった〔Cox, 184.〕。騎士団は十字軍のように 聖母マリアに捧げた。十字軍が出立する期日は1365年3月1日に決めたが、教皇はピエール1世とアメデーオ6世が早期に出立つすることを期待していた〔Setton, 286.〕。期日の日には誰も来なかったが、ピエール1世は6月27日アレクサンドリアへの十字軍に向けてヴェネツィアを発った〔Cox, 205.〕。
1363年5月1日にウルバヌス5世はハンガリーラヨシュ1世騎士王オスマン帝国に対する十字軍を訴え、ラヨシュ1世は1364年から1365年の冬にかけて、オスマン帝国によるヨーロッパ侵攻に対する主要な防備を固めるための軍備を整えた。1365年のヴェネツィアからの報告によると、10艘のガレー船がラヨシュ1世のためにプロヴァンスに掻き集められ、ラヨシュ1世はザラダルマチアに支援を求める発行をした。春にラヨシュ1世はオスマン領ヨーロッパ(ルメリア)よりもブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダルの次男にあたるイヴァン・スラツィミルが統治するブルガリア北部に侵攻し、ヴィディンを占領してスラツィミルを捕虜としてハンガリーに送った。1366年にアメデーオ6世と共同してオスマン帝国を攻撃するというラヨシュ1世の遠征は、このようにして完了した〔Setton, 286–87.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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