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サヴォイア=アオスタ家(Savoia-Aosta)は、1845年にピエモンテ=サルデーニャ王家であるサヴォイア家から分かれた分枝。本家が1861年から1946年までイタリア王国の王家の地位にあったため、イタリア王室の一員とされた。当主はアオスタ公(Duca d'Aosta)の儀礼称号で呼ばれた。 == 歴史 == アオスタ公の称号は、アオスタ渓谷にあったサヴォイア家領の一部アオスタ伯領(およそ現在のヴァッレ・ダオスタ州)を、13世紀中葉にホーエンシュタウフェン王朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、公爵領に昇格させたときから始まる。アオスタ公領は1539年から1563年にかけてのフランス占領時代を除き、常にサヴォイア家の領土だった。アオスタ公の儀礼称号は、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世が1802年に王位を継ぐまで使用していた。 サヴォイア=アオスタ家の始祖であるアメデーオは、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とその王妃であるオーストリア大公女マリア・アーデルハイトの次男であり、1845年に誕生した際にアオスタ公の称号を授けられた。父王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は1859年に第2次イタリア独立戦争に勝利し、1861年にイタリア王に即位した。アメデーオは1870年、スペイン名誉革命に際して成立した暫定政権からブルボン家に代わる新しいスペイン王として迎えられ、アマデオ1世を名乗った。しかしその後の政治情勢の転変により、1873年には退位を余儀なくされた。 第2代当主のエマヌエーレ・フィリベルトは、1876年に母親のマリーア・ヴィットーリア・ダル・ポッツォ・デッラ・チステルナよりチステルナ=ベルリグアルド公(Principe della Cisterna e di Belriguardo)、ヴォゲーラ侯爵(Marchese di Voghera)、ポンデラーノ伯爵(Conte di Ponderano)の称号を相続した。これらの称号は、アオスタ公の称号とともに以後のサヴォイア=アオスタ家の当主に受け継がれることになった。 第4代当主のアイモーネは、1941年に枢軸国の傀儡国家として建国されたクロアチア独立国の国王に推戴され、トミスラヴ2世を称したが、1943年には王位を放棄させられた。そして1946年のイタリアの共和制への移行により、王族としての身分を失った。 第5代当主で名目上のアオスタ公であるアメデーオは、2006年に本家の当主であるヴィットーリオ・エマヌエーレ元王太子のサヴォイア家家長としての地位を否認し、自らがサヴォイア家家長であり名目上のイタリア王である、と宣言した。この際、アメデーオは儀礼称号としてサヴォイア公(Duca di Savoia)を使うようになったため、それまでプッリャ公の称号で呼ばれていた彼の長男アイモーネが、アオスタ公と呼ばれるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サヴォイア=アオスタ家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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