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ザカルパッチャ、ザカルパート州〔『世界地名大辞典2 ヨーロッパ・ソ連II』朝倉書店、昭和49年による表記。〕(ウクライナ語:ザカルパーツィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの最も西に位置する州である。州庁所在地はウージュホロド。州名は、州の位置する地域の伝統的な名称からとられた。ロシア語名はザカルパチア州()。 歴史的にカルパティア・ルテニアと呼ばれた地方である。 ''ザカルパーツィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの最も西に位置する州である。州庁所在地はウージュホロド。州名は、州の位置する地域の伝統的な名称からとられた。ロシア語名はザカルパチア州()。 歴史的にカルパティア・ルテニアと呼ばれた地方である。 == 概要 == ザカルパッチャ州は、ウクライナ・カルパート山脈の南西部から越カルパート低地にかけての地域ザカルパッチャ(越カルパート地域)〔伝統的に、時期によってハンガリー・ルーシ、カルパート・ルーシ(カルパティア・ルテニア)、ルーシ国、ポドカルパート・ルーシ、カルパート・ウクライナ、ザカルパート・ウクライナと呼ばれる。〕に位置している。時期によって、キエフ大公国、オーストリア帝国、ポーランド王国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国、ソビエト連邦などの支配を受けた。 第一次世界大戦後は、フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力が、カルパート・ウクライナとドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を宣言したが、ウクライナ人民共和国がソヴィエト・ロシアとの戦争に敗れたため、合同は実現しなかった。サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった。 チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した。ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた。そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた。 1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した。セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語を「ウクライナ語」に定めた。国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた。大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した。しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はルーマニアへ亡命、国は亡びた。「カルパート・シーチ」は同年5月まで武力闘争を続けたが敗れた。 ハンガリー王国時代には、ベレグ、ウング、ウゴチャ、マーラマロシュ、シャーロシュ、ゼンプレーン県の各一部の地域となった。 1944年11月には赤軍がハンガリーを破り、かつてのカルパート・ウクライナの地域はザカルパート・ウクライナの国号の下、独立を宣言した。しかし、この国家はソヴィエト・ウクライナと合併することになり、1945年7月には消滅した。1946年には、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合された。 ソ連崩壊に伴い同地は新しく成立したウクライナの一部となった。当初はウクライナを離脱しチェコスロバキアへの再併合を求める声もあったが、チェコスロバキアがチェコ共和国とスロバキアに分裂したため議論されなくなった。しかし2008年にはムカーチェヴェにて、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言するなど、現在でも「ウクライナ人」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている。 File:West ukraine.png|西ウクライナ人民共和国の地図 File:Czechoslovakia01.png|戦間期のチェコスロバキア共和国の地図 File:Carpatho Ukraine March 1939.png|チェコスロバキアにおけるカルパティア・ルテニア 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ザカルパッチャ州」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zakarpattia Oblast 」があります。 スポンサード リンク
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