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ザクセン=コーブルク=ゴータ家()は、ドイツのヴェッティン家(エルネスティン家)の分家で、ドイツ中部にあったザクセン=コーブルクおよびザクセン=ゴータの2つの領邦からなるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主の家系である。一族からは現在のベルギー王家、イギリス女王ヴィクトリアの夫アルバート(サクス=コバーグ=ゴータ家の起源)、ポルトガル女王マリア2世の夫フェルナンド2世(ブラガンサ=コブルゴ家の起源)、およびブルガリアの君主も出た。 家名を各国語で表記すると次の通りである。 ==ザクセン=コーブルク=ゴータ家== ザクセン=コーブルク、ザクセン=ゴータの両公国はともにドイツ連邦に加盟し、ヴェッティン家エルネスティン系が統治するの一つであった。1825年、最後のザクセン=ゴータ=アルテンブルク公フリードリヒ4世が男子の後継者なしに死去すると、ヴェッティン家の同族たちはその所領を分配した。フリードリヒ4世の姪ルイーゼの夫だったザクセン=コーブルク=ザールフェルト公エルンストはザールフェルトに代わってゴータを獲得し、称号をザクセン=コーブルク=ゴータ公と改めた。こうして1826年、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国は他の領邦に隔てられた2つの公国の同君連合として始まった。 1844年にエルンスト1世が死去すると、長男エルンスト2世が公位を継承した。次男アルブレヒト(アルバート)は1840年にイギリス女王ヴィクトリアと結婚していた(女王の母ヴィクトリアはエルンスト1世の妹であった)。エルンスト2世は1893年に子を得ずに死去したため、公位継承権は弟アルバートの長男であるイギリス王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)に渡ったが、アルバート・エドワードは次弟のエディンバラ公アルフレッドに継承権を譲った(アルフレート)。アルフレートは1900年に死去したが、唯一の男子アルフレートは前年に自殺していた。アーサー(アルバートの三男)とその息子が辞退したため、チャールズ・エドワード(アルバートの四男レオポルドの唯一の男子)が公位を継承した(カール・エドゥアルト)。 カール・エドゥアルトは第一次世界大戦中にドイツ陸軍の将軍として任務に就いていたため、1917年にオールバニ公爵位を剥奪された。1918年11月18日、ドイツ革命によってカール・エドゥアルトは追放され、2つの旧公国は別個の州となった。1919年にはイギリス王族としての身分も剥奪されている。 一方、イギリス王家はエドワード7世の子孫によって現在まで続いている。 エルンスト1世にはまた、フェルディナント、レオポルトの2人の弟がいた。レオポルトは1831年に初代ベルギー国王に即位し(レオポルド1世)、現在のベルギー王家の祖となった。フェルディナントはハンガリーの名門貴族コハーリ家のマーリア・アントーニアと結婚して同家の後継者となった(コーブルク=コハーリ家)が、その長男フェルディナントは1836年にポルトガル女王マリア2世と結婚し(フェルナンド2世)、1910年に革命で王制が廃止されるまでポルトガル王家として続いた。フェルナンド2世の次弟アウグストの末息子フェルディナントは、1887年にバッテンベルク家のアレクサンダルに代わってブルガリア公となり、1908年からはブルガリア国王(ツァール)を称した(フェルディナンド1世)。ブルガリア王家はフェルディナンド1世の子孫によって継承され、共和制に移行する1946年まで続いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ザクセン=コーブルク=ゴータ家」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 House of Saxe-Coburg and Gotha 」があります。 スポンサード リンク
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