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ザンジュ(Zanj)(; "黒人の土地" 〔Deutsche Morgenländische Gesellschaft, Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft, Volume 131 (Kommissionsverlag F. Steiner, 1981), p. 130.〕) は、かつてアラブ人地理学者によって東アフリカ沿岸の特定の場所、またはその住人である「ザンジュ」と呼ばれたバントゥー語話者の両方を指すために用いられた呼び名である 〔F. R. C. Bagley et al., ''The Last Great Muslim Empires'' (Brill: 1997), p. 174.〕 。 海岸は、「ザンジバル」という地名の語源でもある。 ==東アフリカの区分== 歴史的に地理学者たちは、東アフリカ沿岸をおおまかにそれぞれの地域の住人に基づいて幾つかの地域に区切っていた。 北ソマリアには、古代ギリシア及び中世アラブの地理学者がそれぞれ東部「Baribah」つまり「バルバロイBarbaroi」(ベルベル人)と呼ぶ所のソマリ人の祖先の土地であった''Barbara'' があった〔〔〔James Hastings, ''Encyclopedia of Religion and Ethics Part 12: V. 12''(Kessinger Publishing, LLC: 2003), p. 490.〕。現在のエチオピアには、'':en:al-Habash''つまりアビシニアがあり〔Sven Rubenson, ''The Survival of Ethiopian Independence'' (Tsehai, 2003), p. 30.〕、そこにはHabeshaの祖先である''Habash''つまりアビシニア人が住んでいた〔Jonah Blank, Mullahs on the mainframe: Islam and modernity among the Daudi Bohras (University of Chicago Press, 2001), p. 163.〕。 アラブ人と中国人の資料は、アビシニア高原及びBarbara南部の地域全般を「ザンジュ」つまり「黒人の地」として言及している〔.〕。 そしてそこには、ゼンジュZenjやズィンジュZinjとも転写される「ザンジュ」と呼ばれるバントゥー語話者の人々が居住していた〔〔Bethwell A. Ogot, ''Zamani: A Survey of East African History'' (East African Publishing House: 1974), p. 104.〕〔 。 ザンジュの中心地域は、現在のモガディシュ南部〔Timothy Insoll, ''The Archaeology of Islam in Sub-Saharan Africa'' (Cambridge University Press: 2003), p. 61.〕 からタンザニアのペンパ島にかけて広がっていた。ペンバ島の南に現在のモザンビークのソファラがあり、その北の境界は:en:Panganiであったと考えられている。ソファラの向こうには、モザンビークに位置するWaq-waq(ワクワク)との不明瞭な領域があった〔Stefan Goodwin, ''Africa's Legacies of Urbanization: Unfolding Saga of a Continent'' (Lexington Books: 2006), p. 301.〕。10世紀のアラブ人歴史家で地理学者である マスウーディーはソファラがザンジュの集落の辺縁であると述べ、その王の称号をバントゥー語の単語の ''Mfalme''で呼んでいる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ザンジュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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