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マリオ・ミラノ(Mario Milano、本名:Mario Bulfone、1935年 - )は、イタリア・トリエステ出身の元プロレスラー。 アメリカ合衆国およびオーストラリアを主戦場に活動し、日本にも全日本プロレスの常連中堅外国人選手として何度となく来日した。 == 来歴 == 少年期に家族で南米のベネズエラに移住し、学生時代はレスリングの選手となって活躍〔『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P55、P58(2002年、日本スポーツ出版社)〕。在学中にブラジル出身のプロレスラーであるヘニー・ハワードにスカウトされ〔、1953年に18歳でベネズエラの首都カラカスにてデビュー。当初はブラック・ディアブロ(''Black Diablo'')なる覆面レスラーとして活動していた〔。 1960年代に渡米し、イタリアの出自を強調したマリオ・ミラノ(''Mario Milano'')にリングネームを改名。テネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA)を活動拠点に、ベビーフェイスのポジションで同地区のヒーローだったジャッキー・ファーゴともタッグを組んだ。1965年から1966年にかけてはレン・ロッシーとのコンビで活動し、ヒロ・マツダ&カンジ・イノキやトージョー・ヤマモトらのチームを破りミッドアメリカ版のNWA南部タッグ王座を再三獲得している。 1960年代後半よりオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)を主戦場とし、1967年9月8日にはキラー・コワルスキーからフラッグシップ・タイトルのIWA世界ヘビー級王座を奪取。以降もバロン・マイケル・シクルナやザ・スポイラーを破り、通算4回に渡って同王座に戴冠した。IWA世界タッグ王座も同じイタリア出身のドミニク・デヌーチらをパートナーに、コワルスキー&ビル・ミラーやスカル・マーフィー&ブルート・バーナードなどの強豪チームを下し再三獲得している。 アメリカ本土での活動も続け、1970年にはニューヨークのWWWFに参戦し、ジョニー・ロッズ、ルー・アルバーノ、プロフェッサー・タナカ、アーニー・ラッド、イワン・コロフらヒール勢と対戦。ゴリラ・モンスーンやビクター・リベラ、チーフ・ジェイ・ストロンボーともタッグを組み、ジートとベポのザ・モンゴルズが保持していたWWWFインターナショナル・タッグ王座にも挑戦した〔〔。 1970年代もオーストラリアを主戦場に、1974年5月19日にはIWA世界ヘビー級王座の後継タイトルであるNWA豪亜ヘビー級王座をワルドー・フォン・エリックから奪取。以降、1978年にワールド・チャンピオンシップ・レスリングが活動を停止するまで、豪州マットのスターとして活躍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マリオ・ミラノ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mario Milano 」があります。 スポンサード リンク
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