翻訳と辞書
Words near each other
・ ザ・バトル・オブ・レッド・クリフ
・ ザ・バラクーダ
・ ザ・バリー
・ ザ・バレー
・ ザ・バレー図書館
・ ザ・バロネッツ
・ ザ・バロン
・ ザ・バロン (テレビドラマ)
・ ザ・バンク 堕ちた巨像
・ ザ・バンク・ディック
ザ・バンド
・ ザ・バンド (プロレス)
・ ザ・バンド・アパート
・ ザ・バンド・ペリー
・ ザ・バンピード
・ ザ・バークレイズ
・ ザ・バーザーカー
・ ザ・バーザーカー (バンド)
・ ザ・バーズ
・ ザ・バード


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ザ・バンド : ウィキペディア日本語版
ザ・バンド

ザ・バンド (The Band) は、1967年から1976年アメリカで活動したロック・バンド。オリジナル・メンバーは、カナダ人4人(ロビー・ロバートソンリチャード・マニュエルガース・ハドソンリック・ダンコ)とアメリカ人1人(リヴォン・ヘルム)。1983年にロバートソン以外のメンバーが再結成し、メンバー・チェンジやサポート・メンバーを加えながら1999年まで活動した。
ミュージシャンズ・ミュージシャンとして、今なお多くのアーティストから尊敬を集めている。1989年にカナダのCanadian Music Hall of Fame殿堂入り、1994年ロックの殿堂入りを果たしている。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第50位。2008年グラミー賞の Lifetime Achievement Award を受賞した。
== バイオグラフィー ==

===ザ・バンド以前===

1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを連れロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れカナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエルガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーである。1963年までロニー・ホーキンス (Ronnie Hawkins) のバックバンドとして活動していた。
1964年、ロニーと意見の相違から別れたザ・ホークスは、「リヴォン&ザ・ホークス」と名乗りカナダとアメリカで地道なライブ活動を続ける。やがて、ボブ・ディランのマネージャーのアルバート・グロスマンの目に留まり、ブルース・シンガーのジョン・ハモンド(ディランを世に出したプロデューサーのジョン・ハモンドの同名の息子)の推薦もあって、彼らはボブ・ディランのバックバンドとして抜擢されることとなった。折しも、ディランがアコースティックギターの弾き語りによるフォーク路線から、エレキギターを使用したフォークロック路線へと転換する時期であり、電気楽器を嫌う従来のフォークファンからは壮絶なブーイングを受けた。しかしこれが逆にバンドの知名度を高めることになる。
ディランとホークスとのコンサートツアーは全米、オーストラリアヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こす。この様子はディランのライブ・アルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に記録されている。ツアー半ばで、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したリヴォン・ヘルムが脱退し、後任にはミッキー・ジョーンズが一時的に参加した。
ツアー終了直後の1966年7月、ディランは交通事故で負傷。仕事を失っていたメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク郊外のウッドストックに住みつく。このころリヴォンも復帰する。彼等の家はピンクのペンキで塗られており、「ビッグ・ピンク」と名付けられた。ここではディランとのセッションが行われ、その音源がロック史上初の海賊盤『Great White Wonder』として流出した。公式には長く未発表であったが、1975年に『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』としてリリースとなった。また2014年にはディランのブートレッグ・シリーズ第11集『The Basement Tapes Complete』として、その全容が公表された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ザ・バンド」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.