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ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション (The Mothers of Invention) は、1964年から1975年にかけて活動したアメリカ合衆国のロック・バンドである。主に作曲家・ギタリストのフランク・ザッパと共演し、その作品をレコーディングするためのバンドであったが、ときおり作曲クレジットに名前が記載されるメンバーもいた。 当初、グループは「ソウル・ジャイアンツ」という名前で活動しており、ドラマーのジミー・カール・ブラック、ベーシストのロイ・エストラーダ、サックス奏者のデイヴィ・コロナード、ギタリストのレイ・ハント、ヴォーカリストのレイ・コリンズによって構成されるバンドであった。1964年にコリンズがハントと大喧嘩をし、ハントがグループを去ったため後任のギタリストとしてフランク・ザッパが加入した。それから間もなくザッパはグループのリーダーとなり、1964年5月10日(その年の母の日)にバンド名を「ザ・マザーズ」と改名した。 1965年の後半、レコード会社のプロデューサーであるトム・ウィルソンがマザーズの演奏していたバーへ少しだけ立ち寄り、レコード契約と2500ドルの前渡し金を提示した。 マザーズとウィルソンは数ヶ月の時日と数千ドルの経費を費やして、バンドの第1作にして2枚組のアルバム『フリーク・アウト!』の録音と編集を終えた。彼らのレコード会社であるMGMレコードが、彼らのバンド名は「マザーファッカーズ」(クソッタレども)を短くしたスラングではないのかと疑義を呈したため、マザーズは再度その名を変え、「ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション」を名乗ることとなった。彼らのデビュー・アルバムは1966年にリリースされ、それに合わせてマザーズ・オブ・インヴェンションはツアーに出た。 MGMによる『フリーク・アウト!』の販売実績の記録は30,000組と比較的少ない数にとどまった。そのためレーベルは次のアルバムの制作費を11,000ドルに削減するという措置をとった。しかし、それにもかかわらずマザーズ・オブ・インヴェンションはザッパの指揮の下で『アブソリュートリー・フリー』(1967年)、『ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー』(1968年)、『アンクル・ミート』(1969年)などの作品を次々と発表していった。 1969年、ザッパはオリジナル・ラインナップのマザーズ・オブ・インヴェンションを解散した。ロイ・エストラーダは、ローウェル・ジョージとともに、リトル・フィートを結成することとした。ローウェル・ジョージは、1968年後半から1969年前半にかけての数ヶ月間やはりマザーズのメンバーであったが、ドラッグに溺れていたためザッパからバンドを追い出されていた人物である。 ザッパは1970年に、オリジナル・マザーズのメンバーはドン・プレストン1人だけを含む形で新しいマザーズを再編成した。この「新しい」ラインナップには、イギリス生まれのドラマーであるエインズレー・ダンバー(元ジョン・メイオールズ・ブルースブレイカーズ)、マルチ奏者のイアン・アンダーウッド(キーボード、ギター、木管、ヴォーカル)、その妻で1969年の『アンクル・ミート』セッションでオリジナル・マザーズに加わっていたルース・コマノフ(アンダーウッド)(マリンバ、ビブラハープ)などが参加した。 ジョージ・デューク(キーボード、トロンボーン、ヴォーカル)は1970年の『200モーテルズ』ではじめてザッパと共演し、その後1970年代中期におけるザッパのツアー・バンドの中核を担うメンバーとなった。新生マザーズのその他のメンバーには、ジム・ポンズ(ベース)、ボブ・ハリス(キーボード、ヴォーカル)、ヴォーカリストのハワード・ケイランとマーク・ヴォルマン(いずれも1960年代のポップ・グループ、タートルズの元メンバーで、2人合わせて「フロレセント・リーチ&エディ」、略してフロ&エディの通り名で知られる)、ジェフ・シモンズ(ベース、リズム・ギター)などがいる。 ドラマーにジョン・ゲーリンを擁した新生マザーズが最初に演奏したのは1970年のアルバム『チャンガの復讐』であったが、クレジットはザッパの単独名義となっていた。これに続けてザッパの野心的なコンセプト映画/アルバム・プロジェクトである『200モーテルズ』を制作した。この映画にはジミー・カール・ブラックやフォーク歌手のセオドア・ビケル、元ビートルズのリンゴ・スターなどが出演している。 ふたたび名義を「マザーズ」として、ザッパとグループは2枚のライヴ・アルバム『フィルモア・ライヴ '71』『ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.』を録音し、好評をもって迎えられた。しかし1971年後半、ロンドン公演の舞台裏で観客の1人から襲撃を受けたザッパがオーケストラ・ピットに突き落とされ、1年以上にわたり演奏活動から離れざるを得ないほどの重傷を負ったため、またもバンドは解散することとなった。 ザッパはそれ以前から明白にソロ・アーティストとしてのアルバムをリリースしており、負傷以後も個人名義でのアルバムのリリースは続けていた(『ランピー・グレイヴィ』1967年、『ホット・ラッツ』1969年、『チャンガの復讐』1970年、『アポストロフィ (')』1974年)が、その一方で1970年代にはさまざまなラインナップのマザーズを率いてもいた。しかし、この時点でのバンドはもはや明らかにザッパの伴奏者にすぎないものとなっていた。「マザーズ/ザッパ」(『ロキシー&エルスウェア』1974年)、「フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション」(『ワン・サイズ・フィッツ・オール』1975年)などさまざまな名義でアルバムのリリースは続いたが、『ズート・アリュアーズ』をリリースした1976年以降、ザッパはマザーズの名を用いることをやめた。ただし後年CDフォーマットでリリースされたザッパの作品には種々のラインナップからなるマザーズ時代の音源が収録されており(『オン・ステージ Vol. 3』1988年など)、場合によってはアルバムのジャケットにその名が用いられることもあった(『プレイグラウンド・サイコティクス』1992年、『アヘッド・オブ・ゼア・タイム』1993年など)。 1980年以降、ジミー・カール・ブラック、ドン・プレストン、バンク・ガードナーおよびその他の元マザーズメンバーが集って「The Grandmothers」あるいは「The Grande Mothers Re:Invented」の名でときおり公演や録音を行ない、ザッパやキャプテン・ビーフハートの楽曲のみならずオリジナル曲やブルースのスタンダード曲を演奏している。 == ディスコグラフィ == * フリーク・アウト!(1966年) * アブソリュートリー・フリー(1967年) * ウィー・アー・オンリー・イン・イット・フォー・ザ・マニー(1968年) * クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ(1968年) * アンクル・ミート(1969年) * マザーマニア(1969年) * バーント・ウィーニー・サンドウィッチ(1970年) * いたち野郎(1970年) * フィルモア・ライヴ '71(1971年) * 200モーテルズ(1971年) * ジャスト・アナザー・バンド・フロム L.A.(1972年) * オーヴァーナイト・センセーション(1973年) * ロキシー&エルスウェア(1974年) * ワン・サイズ・フィッツ・オール(1975年) * ザ・グランドマザーズ(1980年)フランク・ザッパは参加せず * オン・ステージ Vol. 1(1988年) * オン・ステージ Vol. 2(1988年) * オン・ステージ Vol. 3(1989年) * オン・ステージ Vol. 4(1991年) * ビート・ザ・ブーツ(1991年、8枚組) * ビート・ザ・ブーツ II(1992年、7枚組) * オン・ステージ Vol. 5(1992年) * オン・ステージ Vol. 6(1992年) * プレイグラウンド・サイコティクス(1992年) * アヘッド・オブ・ゼア・タイム(1993年) * ロスト・エピソード(1996年) * ミステリー・ディスク(1998年) * ジョーのコサージュ(2004年) * The Making Of Freak Out! Project/Object(2006年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マザーズ・オブ・インヴェンション」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 The Mothers of Invention 」があります。 スポンサード リンク
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